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「がんばる」とは、なにだったか

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「がんばれ」「がんばって」と、いろんな人から自分は言われる。外部から届いて来るこの言葉を、自分という人は受けとめる。受けとめた度合いがある程度以上になると、そうか、自分はがんばるのか、と思い始める。さまざまな人たちから受けた「がんばれ」という言葉をひとつにまとめて、それを自分で自分に向ける。よし、がんばろう、ということになる。

 そのスタート地点から、「がんばる」はこんなふうに他律的そして受動的だ。他律的にそして受動的に受けとめた数多くの「がんばれ」を、自分という人は自分で自分に向ける。自分はこうしてひとりだけの状態に置かれることになる。自分ひとりだけでやみくもにおこなう努力。「がんばる」はこういうものになりやすい。多くの人の知恵は参画しないしかけだ。「がんばれ」と言ったそのとき早くも、そう言った人たちは、「がんばる」当人との関係を、すっぱりと絶っている。「がんばれ」という言葉は、じつは酷薄な言葉なのだ。

「がんばる」ことをとおして、自分だけのエネルギーが、自分の内部へと向かい続ける。エネルギーは内向する。やみくもに、がむしゃらに、根性あるのみ、体力勝負といった、非科学性としばしば抱き合わせになる宿命を、「がんばる」は最初から背負っている。群を抜け、独創せよ、自分ならではのものを出せ、創造せよ、などとはけっして言っていない。ゴム印で押したような、いつもおなじ「がんばれ」であることに、注目すべきだ。

「がんばれ」と、じつに多くの人たちが、さまざまな場面で盛んに言う。日本人の合言葉のようだ。「がんばれ」「がんばる」は、そう言われたその人ひとりのものではなく、全員という広がりにそのままあてはまる性質のものだ。多数のものなのだ。多数によって求められ、多数によって評価される、多数に共通するひとまずの成果。「がんばった」結果とは、じつはきわめて凡庸なものなのではないか。人なみの次元に届くこと。人なみという枠のなかに収まること。「がんばった」結果とはこれであり、典型は入学試験への合格だろう。独自の創造はしなくていいこと、それが「がんばる」ことなのだ。

 戦後の日本を支えた企業群は、ほんとうに仕事の出来る人なのか、あるいはそうではないのかという厳しい選択はいっさい省略して、大卒つまり入試に合格した人という履歴だけで、膨大な数の社員を採用してきた。ひとりひとりの能力も責任もはっきりさせないシステムのなかに社員のすべてを抱え込み、人海戦術という過当競争を展開させてきた。人海戦術の人の波のなかに自分を霧散させつつ、人なみのところへと運んでいってもらうことが人生だった時代のなかで、おたがいに無意識になされた自己確認に際して、符丁のように用いられた言葉、それが「がんばれ」「がんばる」「がんばった」「がんばったのに」などであった。

「がんばった」ということが、その内容を不問にして評価された。「がんばれ」ば、そのことによって、誰もが評価された。本当の能力、実力、成果、実績といった、ごく少数の人しか持ち得ないものと、全員を一定以上の評価の対象へと転換する「がんばり」とは、じつは決定的に相容れないのではないか。実力と成果の時代はとっくに始まっている。それと入れ違いに終わったのが、「がんばる」だけの人たちの時代だった。

底本:『自分と自分以外──戦後60年と今』NHKブックス 二〇〇四年

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2017年8月1日 00:00
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