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食卓には花を!

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 アパートメントの部屋を、彼女は出てきた。彼女の部屋は三階にある。小ぶりなアパートメントだが、ユニットごとに複雑に組み合わせたかたちになっていて、このかたちの人工的なところが彼女は気に入っている。そして、住み心地は、とてもいい。

 途中で何度も折れ曲がっている階段を、彼女は軽快な足のはこびで、降りていった。階段ぜんたいがテラスのような造りになっているから、普通のアパートメントでは階段が階段だけのつまらないスペースになっているが、ここではそうではなかった。

 折れ曲がるたびに、お昼にちかい時間の明るい陽ざしが、彼女の全身に降り注いだ。まっすぐに降りていくときには、彼女の全身は影のなかにつつみこまれた。

 階段を降りきると、前庭を抜けておもての道路に出た。

 陽ざしが、広い板張りの歩道いっぱいにあたっていた。彼女の大好きな、分厚く頑丈な板張りの歩道だ。一年ちかくまえ、いまのアパートメントに移ってくるにあたって、この歩道も彼女に引越しを決定させるための大きな力になった。

 風が吹いた。正午ちかい時間に海から吹いてくる風だ。歩道の外が往復六車線のオーシャンフロントの大通りになっている。その大通りのむこうに広い駐車スペースが道路に沿ってあり、そのさらにむこうが、コンクリートのスロープをへて、海岸、そして海だった。

 風のなかに、いつものように、芳しい海の香りがあった。髪が、その風に心地よくあおられた。

 板張りの歩道を、彼女は歩いた。くっきりとした陽ざしや香りのいい風を全身で楽しみつつ、彼女は歩いた。

 歩きなれたボードウォークだが、きれいに洗って乾したばかりの白いスニーカーごしだと、歩きなれた道も新鮮な感触があった。

 ほどよく陽焼けした、すんなりと張りのある脚が、陽ざしのなかで輝いた。肌が、そしてそこに生えている淡いうぶ毛が、陽ざしを反射させて光った。

 ナイロンのジョギング・ショーツは、生地の薄さが、まるで風のようだった。白いTシャツには、風と陽ざしがいっしょになったような気持ちよさがあった。

 十二オンスの缶ビールをひとつ、彼女は持っていた。缶の表面についた水滴が、彼女の指をうっすらと濡らした。

 歩きながら、缶のてっぺんにあるタッブを指さきで引き起こして反対側へ倒しきり、穴をあけた。

 彼女は、ビールを飲んだ。ビールは冷たく芳しく口のなかに広がり、喉をくだっていった。海のほうから、風が吹いた。髪が、うなじや頰を撫でた。

 板張りの歩道に面して店がならんでいるところまで、彼女は歩いてきた。

 花屋さんの前まで、きた。

 店の建物から深い大きな日よけが歩道にむかって広がり、その日よけで陰になったところに、花がいっぱいに置いてあった。

 日よけで陰になったスペースの隅のほうに、木製の丸い小さなテーブルがあり、簡単な椅子が三つ、そのテーブルのまわりにあった。

 椅子のひとつに、彼女は、すわった。椅子の位置をずらし、洗いたてのスニーカーをはいた両足をテーブルにのせた。見るからに快適そうな様子で、彼女は缶のビールを飲んだ。

 やがて、フラワー・ショップのなかから、女主人が出てきた。スポーツ選手のような体つきに、ほんのすこしだけ女らしさを漂わせた、魅力のある中年の女性だ。いつも平凡なスカートに、スカート以上に平凡なブラウスを着ているが、彼女が着ると素晴らしい服に見える。

 テーブルに足をあげて缶ビールを飲んでいる彼女に、女主人は、笑顔をむけ、うなずいた。缶をかかげて、若い彼女も会釈した。

 歩みよってきた女主人に、

「私の朝食をへずってくれてもいいのよ」

 と、若い彼女は、缶ビールをさしだした。

 うけとってふたくち飲み、女主人は缶を彼女にかえした。

「若い人は三度の食事をちゃんととるべきよ。缶ビールなんかですまさないで」

 と、女主人は、魅力のある分別を見せた。

「簡単にすませてはいるけど、基本ははずしてないつもりなの」

「おや、そうかしら」

「このテーブルが、いまの私の食卓なの。食卓には花をそえるのが、基本よ」

 そう言って、彼女は、店さきいちめんの花を、片手で示した。陽ざしのなかを海から風が吹き渡り、ふたりの女性は気持ちよく笑った。

(底本:片岡義男エッセイ・コレクション『「彼女」はグッド・デザイン』太田出版 一九九六年)

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2017年7月6日 00:00
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