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少年の頃、写真家は、夏の日を見ていた

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 ジョエル・マイエロヴィッツの新しい写真集を手に入れた。『夏の日』というタイトルの写真集だ。『夏の日』というようなタイトルのもとに、マイエロヴィッツがどのようなカラー写真を見せてくれるのか、大いに期待して、僕はこの写真集を手にした。

 僕の期待に、彼の写真は、こたえてくれた。素晴らしい写真ばかりだ。はじめから順番に、落ち着いた気持ちで見ていくと、夏の一日のなかでの時間の進行にしたがって写真がならべてあることに気づく。何年かにわたって撮影された写真であり、たとえばひと夏のあいだにすべてを撮影したものではないけれど、夏の一日としての連続性を、ぜんたいは確かに獲得している。

 写真も素晴らしいが、巻末の五ページにわたってマイエロヴィッツ自身が書いている文章が、これまた素晴らしい。そして、このうえなく面白く、興味深い。どんなに素晴らしく、そして興味深いか、すくなくとも彼の文章のほうに関しては、僕なりに説明しなくてはいけないのだろう。

 順番に、書いていくことにしよう。僕が最初にマイエロヴィッツという写真家を知ったのは、一九七九年に発表された『ケープ・ライト』によってだった。あの写真集から受けた衝撃は、たいへんなものだった。ひとつひとつのカラー写真のなかにとらえてある色彩およびその色彩に託された感覚、あるいは感情の振幅の広さとか厚さには、完全に脱帽だった。

『ケープ・ライト』は、色彩の印象があまりに強く、したがって色だけに気をとられすぎ、見落としているものが鑑賞者のほうにたくさんあった。何度も見なおしていくうちに、注意力は彼の写真の画面ぜんたいへと、ようやく広がっていった。

 

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Joel Meyerowitz(1985), A Summer’s Day,Crown.(amazon日本

 

 写真家としてものを見る目の確かさ、つまり彼がたいへんな量と質の修業を徹底的に積んでいるという事実をはっきりと知ったのは、『ワイルド・フラワーズ』という写真集によってだった。この写真集も、ひと言で言うなら、すごい、としか言いようがないほどに、すぐれていた。『夏の日』までにもう一冊、『セントルイスとアーチ』という写真集があるけれど、僕はまだ見ていない。

『夏の日』の巻末に彼が書いたみじかい文章は、非常にうまい。読んでいて、たいへんな快感がある。少年の日々に、ニューヨークのブロンクスで体験した何度もの夏をふりかえり、写真家として高く評価されるだけのいろんな能力をすでに身につけてしまった人の目をとおして、自分にとって夏とはなにであったか、情感ゆたかに、マイエロヴィッツは回想して語っている。

 少年の頃の夏の日々は、大人になって手に入れるカラー・フォトグラファーという状態にとっての、ほんとの意味で基礎的な土台となる、原点のような日々だった。このことを、彼はじつにうまく書いている。

 おおざっぱに説明してしまうにはもったいないほどに、彼の文章は、よく出来ている。どこから書けばいいか、僕は楽しく迷う。たとえば、夏は、少年にとっては、長い夏休みの日々だ。いつまでも夏だったらいいのに、このままずっと夏が終わらなければいいのに、という素朴な気持ちは、その少年にとって、じつはすでに時間の変質を意味してはいないだろうか。このまま、いつまでも夏が終わることなく、いつまでもずっと続いていけばいいのに、という気持ちは、夏休みだから学校へいかなくてもいいという巨大な自由と現実に結びつくとき、すくなくとも休みのあいだは、あるいは休みの日々がまだたっぷりとあるあいだは、いつまでもこのまま夏、という時間を生み出している。夏休みのあいだ、少年は、このままいつまでも夏という、現実から切り離されたもうひとつ別の世界のなかにいる。

 このような時間のなかで、少年は、夏の日の刻一刻を、心ゆくまで楽しむ。こんなときの少年というものは、独特の鋭さを持った受信体であるから、たとえば目に映じるほんのちょっとした微妙なことを、心のひだの奥深くに、はっきりと刻みこむ。身のまわりにある平凡な、なんでもない光景でも、夏の日の少年にとっては、確実に、そして鮮明に、一種の天啓となりうる。

 夏の日の午後おそく、雷鳴をともなった雨嵐が来るとする。自然にとりかこまれた田舎で体験するのと、少年の頃のマイエロヴィッツのように、ニューヨークのブロンクスで体験するのとでは、感銘は大きくちがってくる。田舎で体験すると、まわりの自然によって雨嵐や電鳴は中和されてしまいがちだが、ブロンクスでは、ぎっしりと立てこんだテネメント・ハウスの一帯、そのなかをまっすぐに抜けていく黒いアスファルトの道路、高架鉄道、マーケットなど、田舎とはまったく異なった環境に、雨嵐をきわだったかたちで迎えるわけだから、都会の少年の感受性にあたえる影響は、複雑で微妙で深い。

 雨の音、雨の感触、全身の感覚、特に皮膚をとおして受けとめる温度の変化、空気の質感の変化、湿度、雷の音、雨が西から来てブロンクスをとおり抜け、東へ去っていくことのぜんたい的な感じなど、あげていくときりのない要素のなかに、雨によって世界が大きく変化する、というひとつの事実がある。

 そのとき少年が窓から外を見ているとすると、接近してくる雨は、あたりにあるすべてのものを、ずぶ濡れに濡らしてしまう。あらゆるものが、雨水の膜によって、おおわれる。そうなると、ものは、光の受けとめかた、反射のしかたが、まるっきり異なってくる。雨嵐の到来によって、光はあらかじめ大きく変化している。さらに、世界が雨に濡れることにより、ものの見えかたが、激変する。少年の視界のなかぜんたいで、このようなことが起こり、起こることのすべてを、あらゆるディテールにわたって、少年の目は見届ける。光によって変化する世界のディテールを、同時に、すべて、彼は見る。写真家としての目の修業は、すでにこのとき、はじまっていた。

 夏の日の光のなかでさまざまな出来事を見るのが、マイエロヴィッツ少年はことのほか好きだった。だから彼は、ほかの少年よりもさかんに見たのであり、見たからこそやがて写真家となれた。夏の日の、あらゆる状況のなかで、マイエロヴィッツ少年がいかに世界を見て、目の修業をそうとは意識せずに積みかさねて来たかが、彼の文章のなかに描かれている。そしてそのことの成果は、彼の写真のなかにすべてある。

 光の変化によって、世界が別のものに変わることに対して敏感であるだけではなく、視界のなかにある世界のいたるところで、いろんなふうに世界が変化するそのディテールのすべてを一瞬のうちに同時に見てとるという、写真家にとって必須の能力は、テネメント・ハウスに囲まれたアスファルト舗装の空き地でおこなった野球のなかに、その原形が読みとれたりするのは、じつにスリリングなことだ。

 夏の強い光は、夜明けから夜の深い時間にいたるまで、刻一刻、さまざまなニュアンスを生み出す。そのニュアンスのひとつひとつを受けとめて自分のものとしていた少年の日々の感覚が、『夏の日』のなかに提示してある。

 風景はアメリカのものだし、夏の質感そのものが、日本の夏とはちがっているから、共感がどこまで可能か、すこしだけ不安はあるけれど、写真の勉強には欠かせないマイエロヴィッツの『夏の日』だ。

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『なぜ写真集が好きか』太田出版 1995年

今日のリンク|ジョエル・マイエロヴィッツ公式サイト

スクリーンショット 2017-06-21 16.58.11 *写真集『夏の日』紹介ページ(katyelliott.com)

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2017年7月1日 00:00
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