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彼女が雨を見る態度

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 1 

 秋の雨の頃、仕事の帰りに彼女は京都に一泊した。京都は雨だった。その雨の京都から、彼女は、親しい友人に宛てて、絵葉書を出した。絵葉書に彼女は次のように書いた。

『雨の京都で蛇の目を買いました。さっそく、それをさして散歩しました。夕方の雨の彼方から、鐘の音が聞こえてきたのです。私がさしている蛇の目の上に落ちる雨の、滴のひとつひとつのなかに、鐘の音が入りこんでいくように、私は感じました』

 

 2 

 どしゃ降りの雨の日、友人を隣りの席に乗せて、彼女は東京の高速道路を自動車で走った。

「もうすっかり秋なのね」

 と、友人が言った。

「草も枯れてます」

「枯れた草は、今日は雨に濡れているでしょう」

「枯れ草の広がりが、私は好きなの。気にいった場所を、何か所も知ってます。雨が終わって晴れたら、枯れ草の広がる場所を、訪ねてみようと思う。枯れ草の上にあおむけに横たわると、青い空がかならず、私を受けとめてくれるから」

 

 3 

 雨のウイーク・デー、早朝の第一便に、彼女は搭乗した。雨に包まれた遠くの山なみが、ぼうっとかすんで見える空港を、その定期便は定刻に離陸した。

 彼女の席の窓から、濡れた主翼のぜんたいが見えていた。離陸してしばらくすると、アテンダントがコーヒーを配りはじめた。

 熱いコーヒーの入った紙コップを両手で持ち、彼女は窓から外を見下ろした。濃い緑の山なみに囲まれた、小さな湾のいちばん奥の上空を、彼女の乗った飛行機は飛んでいた。

 湾に沿って道路があった。その道路を、自動車が一台、小さくぽつんと走っているのを、彼女は上空から見た。見たその瞬間、彼女の気持ちは、その自動車の運転席へと、場所を移した。

 雨の降る湾。湾に沿った道路。その道路を走る車。運転手から見る正面のガラス。ドア・ガラスをすこしだけ降ろしてある窓から吹きこんでくる、海の香りのする風。正面のガラスに当たる雨滴。それをぬぐっていくワイパーの動き。雨にかかわるそのようなことすべてに、彼女の気持ちはからめとられた。

 上空を飛ぶ飛行機を濡れさせているのとおなじ雨が、湾に沿った道路を走る自動車をも濡れさせている事実を、彼女はコーヒーとともに楽しんだ。

 

 4 

 その飛行機のシートの背に、雑誌が入っていた。機内誌だ。樹に関する特集が、何ページかにわたって掲載されていた。

 その特集のすべてを、彼女は読んだ。いまでも印象強くはっきりと記憶に残っているのは、一本の檜に関する、次のような事実だ。

 その檜は、樹齢が六百年を超えている。人の目の高さとおなじあたりを測ると、周囲は六メートルある。すでに天然記念物に指定されている。

 樹齢が六百年を超える巨木ともなると、不思議な能力をさまざまに身につけている。そのなかでも特にはっきりとした能力は、雨を記憶することだ。

 雨の日には、その檜にも雨滴がかかり続ける。太い幹から何本もの枝が分かれていて、枝はさらに何本にも細かく分かれている。そして、どの枝にも、葉がびっしりとついている。

 その樹ぜんたいに、葉がいったい何枚あるのか、ちょっと見当もつかない。葉は無数にある、という言いかたが、もっともふさわしい。それほどの巨木であり、葉の数なのだ。

 無数にある葉のひとつひとつに、一日じゅう、おなじく無数の雨滴が、当たり続ける。葉の表面に雨滴が当たるときの小さな音を、その檜は記憶する。ひとつひとつ記憶していき、一日ぶんの途方もない数の雨の音を、その檜は記憶の内部に蓄積していく。

 そして次の日、雨はあがる。葉は風を受けとめ、音を立てる。普通なら、風を受けて揺れる葉が、おたがいに触れ合って生まれる葉音が、聞こえるはずだ。しかし、この檜の場合は、雨の日の明くる日、もし晴れているなら、葉音は完全に雨の音だという。

 晴れた日の空にむけてどっしりとそそり立ち、大きく何本もの枝を広げ、その枝に無数の葉をたたえているその檜は、雨の音を立てている。風を受けとめて触れ合う無数の葉は、葉音を立てずに記憶のなかから雨の音を出す。樹の下に立ち目を閉じると、聞こえてくる音は、雨の日の音だ。

 その檜は、おそらくそうしてひとり遊びを楽しんでいるのだろう、という土地の老人の言葉が紹介されていた。雨の日の自分が作り出す音を、次の日の晴れた空の下で再現して、巨大な檜はひとりで遊んでいる。

 

 5 

 九月七日。午後五時十五分。シャワーを浴びたあと、彼女はバルコニーへ出てきた。西の空を、そこから広く見渡すことが出来た。

 美しい晴天の日は、夕方になりつつあった。西の空に素晴らしい雲が湧き上がっていた。人間にはとうてい真似の出来ない造形の、量感豊かな雲が、遠くから見たかぎりでは直接に地上から、夏の終わりの空にむけて、広がりのある隆起を達成していた。

 白く輝く複雑な造形のその雲を、彼女は飽きることなく眺めた。前日は雨だった。地上に降ったあの雨が、かたちを変えていまあの雲として蘇っているのだと思うと、そのスリルに彼女はバルコニーからなかに入ることが出来なかった。

 

 6 

 動物園の一部に、ビバリウムがあった。人工の岩や樹木に、自然の樹木や岩などを混在させて作った、人工的な環境としての生態園だ。

 二階建てになったそのビバリウムには、夜行性の哺乳類や爬虫類、そして両生類などが、生きていた。彼らのための環境のすべてを、コンピューターが精密に制御していた。

 ガラスで覆われたその人工環境のなかに、毎日、午前と午後の一度ずつ、スコールが降った。熱帯のスコールを模した雨だ。二十五度に温めた水に圧力をかけて降らせる、人工の雨だ。

 午後のスコールを、彼女はガラスごしに見た。人工の熱帯樹林の上に、虹が出ていた。その虹のせつなさに、彼女は目がくらみそうになった。

 

 7 

 夏の頂点の数日間、ほんのちょっとした冗談のつもりで、彼女は高原のホテルに滞在した。雨の一日をあいだにはさんだ、素晴らしい真夏の数日だった。

 雨の日の午後、そのホテルの屋外にあるプールで、彼女は泳いだ。プールは営業していたが、客はひとりもいなかった。雨が水面を叩いているだけの、ほかにひとりも人のいないプールで、彼女は千メートル泳いだ。いい気分だった。

 クロールでゆったり泳ぐ彼女の顔や肩に、激しく雨が降りかかった。プールの水から顔を上げ、息をつぐとき、彼女の顔を雨が叩いた。プールの水の香りや感触と、空から降る雨のそれとでは、また異なった別のものだった。

 二種類の水を、彼女は楽しんだ。ときたま、足の裏や背中にも、彼女は雨を感じた。

(底本:片岡義男エッセイ・コレクション『「彼女」はグッド・デザイン』太田出版 一九九六年)

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