アイキャッチ画像

荒野の風はサンドペーパー

縦書きで読む

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

 早朝から、かんかん照りだった。

 ついになにかが巨大に狂ったのではないかと誰もが思うような、まっ青な空から、地面のあらゆる部分にむけて、強烈な陽ざしがまっすぐに射しこまれつづけた。

 ぼくがオートバイで宿を出たとき、まだ朝の早い時間だったのだが、荒野はすでにその陽ざしを充分にくらって、満身創痍だった。

 どの方向を見渡しても、だだっ広い荒野は紫色にかすんだ地平線となって蒼空と溶け合っていた。

 おなじ光景が、出発のときからずっといままで、つづいている。自分はほんとうに東にむけてオートバイで走っているのだろうかと、真剣に不安になってしまうほどに、あたりの光景は変化しない。

 変化は、ぼくの両腕にあった。

 Tシャツからむき出しでハンドル・バーにのびているぼくの両腕に、ぼくは、出発のとき、陽焼けを予防するためのペトローリアム・ジェリーをたっぷりと塗りこんでおいた。

 強い陽ざしをうけとめて、ぼくの両腕は、ぎらぎらと輝いた。

 そのペトローリアム・ジェリーを、何度も塗りなおさなくてはいけなかった。風が、みんなぼくの両腕から、さらっていったのだ。砂まじりの風が。

 こまかいけれども硬い砂の粒が、風に乗って飛んできては、ぼくのむき出しの両腕に当たる。

 当たった瞬間、極微量のペトローリアム・ジェリーを削り取り、再び風のなかへ飛んでいく。

 そして、強い太陽光線が、ペトローリアム・ジェリーを乾かしていく。

 あたりの光景は見渡すかぎりどこまでもいつまでも変化しないまま、ぼくの両腕は、ジェリーの保護を失っていった。

 砂まじりの風にペトローリアム・ジェリーの被膜がすっかりはぎとられてしまうと、ぼくの両腕は陽ざしに焼かれはじめた。風を、じかに感じはじめた。

 両腕の黒く陽に焼けていくありさまは、ぼくの目に見える唯一の、そして面白い、変化だった。

 何度もジェリーを塗りなおしたにもかかわらず、早朝から午後のすこしおそい時間のいままでのあいだに、両腕はまるでパサディナのおばあちゃんのオーヴンのなかに長居をきめこみすぎたジンジャブレッド・ボーイさながらに、まっ黒に焼きあがってしまった。

 ジェリーは、顔にも塗った。塗らなかったなら、いまごろぼくの顔は、砂風をたっぷりくらい、目の粗いサンドペーパーをかけられたように、完璧にひと皮ふた皮むけていたにちがいない。

 目のまわりには、念を入れて塗りこめた。

 砂風や陽ざしをよけるためにサングラスをかけてはいるのだが、なんの役にも立たない。砂は頰に当たってサングラスのレンズの裏側からはねかえり、目に飛びこむ。それに、この荒野の陽ざしときたら、直射の猛烈さもさることながら、サングラスの縁を器用にまわりこんで瞳を射抜く芸当にも、習熟している。

 目の縁に厚く塗ったペトローリアム・ジェリーに足をとられて、砂風のなかの砂の粒が、ぼくの目のまわりにサンド・バーをつくっている。眼球を下にむけると、そのサンド・バーがはっきりと見える。

 こういった広い荒野のむこうの端からあっちの端まで、風をくらいながら走るチョッパー乗りたちは、ほとんど誰もが、いかついひげを顔いちめんにたくわえている。

 あのひげは、砂風をよける防風林なのだ。

 正午をすこし過ぎた頃にすれちがったチョッパー乗りを、ぼくは思い出す。

 あのチョッパーの男も、顔はいちめんに、濃いヒゲだった。

 ガーダーのフロント・フォークが、たっぷり二十五インチは、前にのびていた。クローム・メッキできらきらと光るそのフロント・フォークの先端に、十六インチの細いタイアをつけていた。

 ネックを長くのばしたフレームのうえに、スポーツスタのものに手を加えたとぼくには思える燃料タンクが、せりあがっていた。

 この燃料タンクのうしろで、七十四キュービック・インチ排気量の例のエンジンにどっかりとまたがり、男は堂々と風を受けとめていた。

 左手にアイスクリーム・コーンを持ち、ヒゲにうずまった口にさしこむようにして、なめていた。ぼくとすれちがったとき、右手をグリップからはなし、会釈してくれた。ぼくにむけてこぶしを突き出し、親指だけを直立させるという会釈だ。

 鮮明なスカイ・ブルーの燃料タンクやフレーム、そしてクローミングのかたまりのようなエンジンとマフラーが、ライダーのあの男とひとかたまりになり、ぼくとは反対の方向へ飛んでいった。

 このチョッパー乗りがいかに不思議な存在であったかということにぼくがやっと気づいたのは、ついさっきだ。

 あの男は、コーンに盛ったアイスクリームを、なめていた。

 すれちがった場所からたっぷり二時間走ってようやく、次の町だった。途中には、なにもない。

 あの男がこの町でアイスクリームを買ったとして、こんな強い陽ざしのなかで二時間ももつはずはない。

 ピンクや紫、それにミント・グリーンのアイスクリームが、コーンのうえにこってりと盛りあげてあるのを、あの男のチョッパーとすれちがうとき、ぼくは、はっきりと見たのだ。

 まちがいなく、あれはアイスクリームだった。いかついヒゲ面のあの男は、チョッパーにまたがって風を受けて走りながら、アイスクリームをなめていた。

 あの男は、いったいどこから来たのか。

 陽ざしのせいで明らかに日射病のようになりつつあるぼくの頭のなかに、あのチョッパー乗りがなめていたアイスクリームの謎が、テーブルに垂らしたエンジン・オイルのように、広がっていった。

 あのアイスクリームとあの男は、どこから来たのか。

 ぼくは、次の小さな町に近づきつつあった。ハイウエイだけでおたがいにつながれて、荒野のなかにぽつんぽつんと点在する、おたがいに見分けのつけかねる、よく似た町だ。

 タウン・リミットに、町の名と人口の数字を書きつけた標識が、立っている。いまぼくが近づきつつある町のタウン・リミットにも、そんな標識が立っていることだろう。

 だが、標識よりもさきに、二軒の建物が見えてきた。

 ハイウエイから浅い角度で斜めにドライヴ・ウエイが分かれていき、その建物の前の駐車スペースにつながっていた。

 平たくて四角い、なんの愛想もない、小ぶりな建物だ。正面に数段の階段があり、すこしくぼんでドアがひとつある。ドアのうえに、ネオン管のサインがとりつけてあった。

 白熱しきったような輝きのなかに夕方の黄金色がごく淡く溶けこみはじめた陽ざしに照らされて、そのネオン管のサインは、ほんのりと赤かった。

 BEERと、その淡く赤いネオン管が、ぼくに伝えてくれた。強い陽ざしにいまにも消されてしまいそうなはかない赤さが、ぼくのいまの気持ちにぴったりだった。

 その建物は、バーなのだ。そして、その奥にあるもう一軒のいますこし大きい建物は、モーテルだった。

 ぼくは、ハイウエイからドライヴ・ウエイに、オートバイを入れた。

 駐車スペースには、乗用車が一台、とまっているだけだった。おそらく、バーテンダーが乗って来た車だろう。ネオン管が灯っているからには、バーはすでに営業しているにちがいない。

 とまっている乗用車は、マーキュリー・マークイスの4ドア・セダンだった。深いアズキ色のボディのあちこちに、へこみやくぼみがあった。バンパーも、ひどくいためつけられていた。これに乗っている人は、きっと無頓着な運転をしているにちがいない。

 したがってそのセダンからたっぷり距離をとって、ぼくは、オートバイをとめた。

 サイドスタンドを出して車体を左にかしがせ、重い重量をそのスタンドにまかせた。エンジンを停止させた。

 かたくなっている全身の関節のひとつひとつを、ゆっくりためしながらゆるめていくような動作で、ぼくはオートバイを降りた。

 抜き取ったキーをブルージーンズのポケットにしまいこみながら、ぼくはバーの建物にむけて歩いた。

 数段の階段をあがってサングラスをとり、はかなく赤いネオン管を見上げてから、ドアを開いた。そして、バーのなかに入った。

 バーの内部は、薄暗かった。

 このような薄暗さがもし香りを持ちうるとするなら、バーのなかに一歩入った瞬間のぼくが嗅いだ香りこそ、この薄暗さにふさわしい香りだった。

 バーのなかには、おがくずの香りが、しっとりと漂っていた。機械ノコギリで太い樹の幹を切ったときに生まれる、新鮮なおがくずだ。

 ほんのりときいているエア・コンディショニングの、人工的な香りもあった。エア・コンディショニングはかすかにきいているだけなのだが、早朝からのかんかん照りの陽ざしを全身でからめとりつつ荒野のなかを走ってきたぼくにとっては、たとえようもなく素晴らしい恵みの冷気だった。

 その冷たさのなかに踏みこんで、冷えた空気が全身の肌を愛撫していくのを、ぼくは楽しんだ。おがくずの香りを、胸いっぱいに吸いこんだ。ほんの一瞬、ぼくは、気が遠くなりかけた。

 ぼくの目が薄暗さになれるまでに、しばらく時間がかかった。

 いっぽうの壁にそって頑丈なカウンターがあり、すわり心地の良さそうなストゥールがならんでいた。ストゥールには、ひとりの客もいなかった。

 カウンターのなかの、いちばん奥に、人がひとりいた。若い女性だった。彼女の金髪が、ほの暗いバーのなかで、やさしい後光のように輝いて見えた。

 顔をあげてぼくを見た彼女は、淡く微笑した。

 カウンターの奥まで、ぼくは歩いた。はいているブーツの、分厚いヴィブラム底をとおして、床に敷いてあるおがくずの感触が、ぼくの両脚から腰へ、そして背骨を経由して肩のあたりまで、伝わってきた。

 彼女から斜めに位置をとって、ぼくはストゥールにすわった。サングラスをカウンターに置き、

「やあ」

 と、言った。

「やあ」

 と、女性の抑揚で、彼女もあいさつをかえした。

 ぼくの顔、そしてカウンターのうえから見えている上半身の風体を、彼女は見た。

「ビール、というネオン管を見かけたんだよ」

 と、ぼくは言った。

「ネオン管の赤は、陽ざしに消されてしまいそうなほどにはかないけど」

 彼女は、微笑した。そして、

「夜になると、あれでも相当に目立つのよ。遠くからでも見えるんですって」

 と、言った。

「ぼくも見たよ。昨日の夜、ロサンゼルスのザ・スタックのてっぺんから見えたので、今日こうして、そのビールを飲みに来たんだ」

 ぼくの言葉に、彼女は、退屈そうにみじかく笑った。

 こちら側にいるぼくからはまったく見えないけれど、カウンターの内側には台があるらしい。その台のうえに、彼女は、金属でできたなにかかなり重いものを、静かに置いた。ゴトン、という音が、きこえた。

 彼女がなにを置いたのか、ぼくにはよくわかる。回転弾倉のどのシリンダーにも弾丸をこめた、口径の大きいリヴォルヴァーだ。

「オートバイで来たのね」

「そうなんだ」

「音ですぐにわかるわ」

「ビールの銘柄も、言わなくたってわかるだろう」

 彼女は、また、みじかく笑った。

「いつものバーテンダーはお休みで、私は臨時なの。でも、その臨時の私にも、あなたが飲みたがっている銘柄くらいは、わかるわ」

 そう言った彼女は、奥へ入っていこうとした。

 立ちどまって肩ごしにふりむき、

「グラスは使うの?」

 と、きいた。

「使いたいんだ」

 ぼくは、こたえた。

「よく冷えたビールをとにかくひとくち飲んだら、すっ裸になってそのグラスのなかに飛びこみたいから」

 つけ加えたぼくの言葉に、彼女は笑った。彼女は、奥へ入っていった。

 すぐに、出て来た。

 グラスをひとつと、見るからによく冷えていそうな十二オンスの缶ビールを一本、持っていた。銘柄は、クアーズだった。

 クアーズとグラスを、彼女はぼくのまえに置いてくれた。

 ブルージーンズのポケットからつかみだしたありったけの硬貨を、ぼくはカウンターにならべた。缶ビールだけなら一ダース分以上の額だった。

 一本分の代金を指さきで彼女のほうに押しやり、ぼくは缶ビールを手にとった。掌ぜんたいに伝わってくる冷たさが、信じられないほどに鮮明だった。

 口金を押しあげて三角形の穴をあけ、冷たいビールをグラスに注いだ。なにか洒落たことを言わなくてはいけないとは思うのだが、ぼくの全神経はビールに集中してしまっていて、気のきいた台詞はなにも出てこなかった。

 グラスにビールを注ぎおえ、軽くなった缶をカウンターに置いたぼくは、グラスに指をまきつけ、持ちあげた。

 彼女にむけて乾杯の会釈をごく軽くしてみせ、ぼくはグラスを唇にはこんだ。

 グラスの縁を唇につけ、口のなかにビールを流しこんだ。

 冷たいビールが素晴らしい生き物のように、ぼくの食道をくだっていった。胃に届くよりもさきに、食道の壁のあらゆる部分から内部にしみこみ、体内に吸いこまれていった。

「うまいっ」

 と、思わず声に出てしまった。しかも、日本語で。

 カウンターのむこうにいる彼女が、真似をした。

 ぼくは、うなずいた。

「真似としては、上出来だ」

 と、ぼくは言った。

 彼女は、もう一度、真似をしてみせた。そして、

「なんという意味なの?」

 と、きいた。

「感謝の言葉さ」

 ぼくは、こたえた。

「自分の恵まれた状態を神に感謝するときの言葉だ」

 うまいっ! というさきほどのひと言があまりにも真にせまっていたせいだろう、そんな出まかせの説明を、彼女は充分に信じたようだった。

「ぼくの次にこの店でビールを飲むオートバイ乗りに、いまの言葉を教えてあげてくれよ」

 ぼくはさらにビールを飲み、そのぼくを彼女は見守った。

「LAから来たって言ってたわね」

「うん」

「最近のLAは、どうなの」

「山火事」

「いつから?」

「一週間まえ」

「いまでも燃えてるの?」

「燃えさかってる」

「一度でいいから、山火事のときのLAを体験してみたいわ」

 カウンターに置いてあるオートバイのキーを、ぼくは左手で彼女のほうに押しやった。

「いまから西陽にむかって走りつづければ、LAで山火事の香りくらい嗅げるよ」

 サングラスも、彼女のほうへ押しやった。

「このサングラスがおともをしてくれる」

 グラスのなかのビールを、さらにひと口、ぼくは飲んだ。天井をむいてひと息に喉へ流しこんでしまいたい気持ちを必死に抑えながらひと口ずつ飲む楽しさは、こんなときにしか味わえない。

「出発を祝って、ビールを分かちあおうよ」

「出発はしないけど、ビールは飲むわ」

 彼女が、言った。一本分の代金を、カウンターの硬貨のなかから選び出し、ぼくは彼女のほうに滑らせた。

 奥へいってクアーズを一本持ってきた彼女は、飲み口をあけ、すこしずつ飲んだ。

「ベル・エアーが燃えていて、サンディエゴ・フリーウエイは煙で視界が三十メートルほどしか、きかなかったよ。そのサンディエゴ・フリーウエイとサンタ・モニカ・フリーウエイが複雑に立体交差するところでは、何重にもかさなった合計百車線くらいはある変形のクローヴァーが、燃えさかる山火事の照りかえしで、夜のあいだずっとオレンジ色なんだ」

「ちょっとした光景ね」

 彼女と世間話を交わしつつ、一本目のクアーズをようやく平らげたぼくは、二本目を注文した。

 その二本目の途中で、彼女は、

「ちょっと失礼して、書きかけの手紙を書いてしまうわ」

 と言い、ぼくがこの店に入ってきたときに自分がいたところまで、もどっていった。

 彼女は手紙を書き、ぼくはビールを飲んだ。静かな時間が、ゆっくりと流れていった。

 やがて、彼女は、手紙を書きおえた。

「三本目は?」

 と、彼女が、きいてくれた。

「陽が沈んでからにしよう」

「それまでには、まだずいぶん時間があるわ」

「ゆっくりやるさ」

 書きあげた手紙を、彼女は、時間をかけて読んだ。

 読むとふたつに折りたたみ、それを指さきで引き裂いた。かさねあわせてもう一度、裂いた。足もとにあるらしいゴミ箱に、破った手紙をすてた。

 封筒を指さきにつまみあげ、フラップについている糊を舌のさきで湿らせ、フラップを閉じた。

「町のなかをとおるのかしら」

 と、彼女はぼくにきいた。

「明日」

「だったら、この手紙をポストに入れといて」

 ぼくの前まで歩いてきて、彼女は封筒をぼくに手渡した。

 二時間、ぼくは、そのバーにいた。ビールが、体の内部を、気持ちよく湿潤してくれた。

 その湿潤のおかげで体ぜんたいが地表から三十センチほど浮きあがったような気分になったぼくは、バーを出て、となりのモーテルへ歩いた。

 部屋は、いくつもあいていた。いちばん安いレートでひとつ部屋をとったぼくは、部屋に入って熱いシャワーを浴びた。

 体をかわかし、白いきれいなシーツを張ったベッドに横たわり、すこぶる健康的に眠りへのスロープを滑り落ちていった。

 次の日、町に入ったぼくは、まだあいていない郵便局のポストの前でオートバイをとめた。

 カリフォルニアにいるボーイフレンドに出す手紙は、書くたびに読みかえすといやになり、そくざに破りすてる。そして封筒だけをいつも送るのだと彼女は言っていたが、朝の太陽の光にその封筒をすかしてみると、なかにはほんとうになにも入っていなかった。

 封筒を、ぼくは、陽に照らされて熱いポストのなかに、落とした。旅の一日が、またこうしてはじまった。

(初出・底本:片岡義男エッセイ・コレクション『彼の後輪が滑った』太田出版 一九九六年)

タグで読む06▼|オートバイを読む/オートバイで読む

タグで読む_バナー画像_オートバイ

関連エッセイ


1996年 『ターザンが教えてくれた』 アメリカ エッセイ・コレクション オートバイ ハイウェイ 彼女 片岡義男エッセイ・コレクション『彼の後輪が滑った』 缶ビール
2017年5月31日 00:00
サポータ募集中