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『桔梗が咲いた』

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 オートバイを探して自分の書いた角川文庫をさらに過去に向けてさかのぼると、一九八六年の十一月に刊行された書き下ろしとして、『桔梗が咲いた』という中編を僕は見つける。どんなストーリーだったかいっさい思い出せないが、ここにはオートバイがあったはずだ、と僕は思う。北国の夏のなかへふとオートバイであらわれた無口な少年、というイメージから物語を作ったような記憶があるからだ。

 斜め読みしてみると、僕の記憶はかなり違っていることがわかった。ある男性の作家が、三人の若い女性と座談会の場を持つ。自分が十代だった頃、という主題の座談会だ。実際にあった出来事、美化された思い出、そしてまったくのフィクションなどを、三人の女性たちは語っていく。十代の頃の自分に対して、ある程度以上の強さの印象を残した少年、というものに彼女たちの話はやがて絞られていく。

 彼女たちの話を聞きながら、作家は作家で自分の小説の主人公としての少年像を、頭のなかで作り始める。作り始めたばかりの段階の、いちばん最初のイメージの断片が、北国の夏のなかへオートバイであらわれた無口な少年である、というところで『桔梗が咲いた』は終わっている。その少年の物語こそを僕は書かなくてはいけなかったはずだが、そうはなっていない。締切りまでの時間が決定的に不足していたから、現実世界の作家である僕もまた、一冊の文庫を架空の座談ですませてしまったということだろう。

 北国の夏のなかへオートバイであらわれた無口な少年のストーリーを、ついでだからいまここで作ってみよう。彼が無口であるとは、どういう意味か。彼がもう何年もずっと、ひとつのことを思いつめて来た、ということであり、思いつめきっていまや飽和点に達している、という意味だと思えばいい。だからこそ彼は、オートバイで夏の北国へやって来た。やって来たとは、要するにリアクションだ。彼にそのようなリアクションをさせたものは、ではいったいなになのか。

 姉という存在は、夢物語として、たいへん美しく使える。だからここでは、彼にリアクションさせた力は姉である、ということにしてみよう。事情があって幼い頃に生き別れた姉を、彼はずっと思って来た。優しく美しい、いつも自分を守ってくれた姉。彼のなかで思慕され続けた姉は、いまや女神のようになっている。その姉は、生き別れて消息不明というのではなく、消息はなんとなくわかっている。たまに葉書が彼宛てに届いたりもする。

 僕がかつて書いた短編に、『最愛のダークブルー』というのがある。生き別れた姉を思慕する少年のストーリーだ。姉にはダークブルーという色がもっとも似合う、と彼は思っている。だから彼は、これこそ姉だと心から信じることが出来るようなダークブルーの色を苦心して出し、その色をカンヴァスいちめんに塗り、姉の象徴、つまり『最愛のダークブルー』として大切にしている、というファナティックなストーリーだ。

 北国の夏のなかにオートバイであらわれた少年は、たとえばこのような心の状態であるといい。思慕してやまない姉をめぐって、彼は心理的には完全に視野狭窄におちいっている。自分ひとりだけの姉を探し求めて、彼は夏の北国へやって来る。彼は姉に会う。姉も旅暮らしの人だといい。たとえばストリッパーのような。自分ひとりのものであるはずだった美しく優しい姉は、ストリッパーつまり万人のものであることを、彼は発見し受けとめる。

 旅暮らしの姉とともに、夏のあいだ、彼はオートバイで移動していく。日々が重なるにつれて、姉が万人のものである事実を、彼は深くさらに深く、知っていく。自分はその万人のうちのひとりでしかないことを、彼はけなげにも自覚する。その自覚を引き受けて深める日々が、彼女とともに過ごす夏という季節だ。彼と彼女とのあいだには、性的な関係が生まれるといいかもしれない。姉に対する彼の思慕はさらに深まると同時に、彼女は万人のものであるという自覚も、そのような関係をとおしてこそ、否応なしに彼の内部に突きささっていく。

 北国に秋は早くに来る。姉との別れだ。その別れの状況に全体の三分の一も費やすなら、姉がより深く彼の心の内部に入り込むと同時に、彼女を自分だけのものとして欲しいと願っていたファナティックな状況からは開放されるという二重の構造が、余裕を持って描けるのではないか。『桔梗が咲いた』の最後の部分に、夏の北国へオートバイで来た少年と、彼をふと見かけるストリッパーとが、作家の頭のなかに生まれたイメージのかけらとして、描いてある。その部分だけを採録してみよう。


 いまはストリップ・ショーの劇場になっているその建物は、かつては映画館だった。映画だけを上映していたのだが、やがて映画にストリップ・ショーが加わるようになり、そのような状態での営業がしばらく続いたあと、ショーだけとなった。
 映画館であった名残りは、いまでもはっきりと、その建物にあった。人ならば額にあたる位置に、垂直に大きく長方形に立っている看板は、三本立ての映画のために宣伝の絵や文字を描くスペースが、充分にあった。いまは、そのスペースになにも描かれていない。看板ぜんたいを下から照らすための、いくつかのフラッド・ライトは、残骸として残っていて、役には立たない。
 建物に正面からむきあって立つと、ポスターやスティル写真を貼るための、ガラスのはまったウインドーが、左右均等の大きさで設けてあり、劇場の入口にむけて奥へ入りこむように、カーヴを描いていた。入口は、縦に長い観音開きのドアだった。右側のウインドーの奥には、入場券を買うための小さな窓口がつくってあった。窓口には、いまはカーテンが閉じてあった。生成りのような色をした木綿のカーテンであり、汚れたままであることが、遠くからでもわかった。
 道路に面した表側は、すべて板張りだった。淡いブルーに塗ってあり、ウインドーの縁どりは白だった。ペイントは色あせ、一面にめくれてささくれていた。
 建物の左側に、隣の建物とのあいだに、せまい通路があった。この通路を入っていくと、映画館の建物が終わるあたりで、壁にドアがひとつあった。この壁は、建物の背後にある敷地の周囲をとりまいて立っていた。
 壁のドアを入ると、建物の裏にある、内庭のようなスペースだった。木造の平屋の建物が二軒、おたがいに離れて建っていた。その二軒の建物を囲んで、雑然と物が置いてあるスペースや、かつては菜園でありいまは利用しないまま草だけが生えている部分とか、はじめからなににも利用していなかった部分などが、おたがいに重なりあい、溶けあうようにしてひとつになっていた。
 二軒の平屋の建物のうち、ひとつはこの劇場の所有者であり経営者である人が家族とともに住んでいる家であり、もうひとつは、劇場に出演するダンサーたちの楽屋だった。
 楽屋に使われている建物は、本来は、広い物置としてつくったものだ。必要最小限の改造をほどこして、いまは楽屋として使用されている。シャワー、化粧台、簡単な壁で仕切った更衣室、ロッカー、物置などに、内部は分かれていた。建物の外壁には、おなじ大きさの小さな窓が、ふたつならんでいた。
 晴天の夏の日、午後の明るい陽ざしが、劇場の裏のスペースに降り注いでいた。光の当たっている部分は、あらゆるものがくっきりと明るく、その光に丁寧につきそって、影もまた端正に鮮明だった。風が吹くと、その陽ざしは空中で波を打ち、光の波はあらゆる方向にむけて遠のいていくように思えた。庭に生えている、丈の高い草が、風になびいた。楽屋の出入り口の軒下に釣ってある風鈴が、風のたびに透明に鳴り、その控えめな小さな音は、風のなかに溶けこみ、どこかへ運び去られた。
 楽屋の出入り口から劇場の裏口までは、板張りの廊下を地面の上にじかに敷いたような廊下で、つながっていた。庭のなかを斜めにのびていくその廊下は、途中で一度、浅い角度をとって曲がっていた。廊下に屋根はなく、雨の降る日には、裸のダンサーたちは傘をさして楽屋から劇場に入った。
 女性がひとり、楽屋の出入り口から出て来た。出て来ると同時に、彼女の全身は、明るい陽ざしを浴びた。いつもほんのりと陽に焼けているような色調の肌が、陽ざしを受けて浮き立った。彼女は、ビキニの水着を体につけていた。布の面積の極端にすくないそのビキニは、晴れた空の色とほとんどおなじだと言っていい、きれいなブルーだった。五センチのヒールのある、ゴールドのサンダルを、彼女ははいていた。サンダルが、陽ざしにきらめいた。
 地面に敷いた廊下の上を、彼女は、軽快に踊るように走った。脚の筋肉、背筋肉、腕の筋肉、わき腹の筋肉など、彼女のあらゆる部分の筋肉が、走る彼女の一歩ごとに、陽ざしのなかに浮き彫りとなった。胸のふくらみが、重くゆれた。
 足もとできらめいているゴールドのサンダルと、美しいブルーに輝いているビキニを含めて、彼女の体は、ぜんたいのバランスが完璧だった。そしてそのぜんたいを見ていると、彼女の体はしなやかにほっそりとしていた。しかし、どこでもいいからあるひとつの部分に目をとめると、そこには必要にして充分な量感があった。ぜんたいのほっそりした印象と、部分ごとの量感とは、微妙に対立しつつ彼女の外側における魅力をつくっていた。そしてその魅力には、もうひとつ、優しそうでもあるけれど容赦なく鋭く精悍でもあるという、やはり対立して存在する一対の魅力が、重なっていた。
 走る彼女に、陽が降り注ぎ、風が吹いた。彼女の髪が、うしろになびいた。板でつくった廊下を走りきった彼女は、劇場の裏口からなかに入った。素人細工によってでこぼこにセメントで固めてあるフロアが、奥にむけて長くのびていた。その先は、急な階段だった。階段の下まで、彼女は歩いた。片側に台があり、その台の上に、大きな花瓶がのっていた。花瓶には、桔梗がひと束、無造作に投げこんだように、活けてあった。花のついている茎を、一本だけ、彼女は抜きとった。桔梗を持って、彼女は、階段を敏捷に駆けあがった。あがったところは、そこがすでに舞台の袖だった。せまい隙間に体を斜めにして滑りこませ、彼女はむこうへ抜けた。舞台に出た。客席は、暗かった。人は、ひとりもいなかった。赤いビニール張りの椅子が、舞台とその中央からのびていくエプロン・ステージとをとり囲むように、ならんでいた。ならびかたは不規則であり、客席のいたみを物語っていた。
 舞台の中央に、彼女は立ちどまった。客席を越えたむこう側の、すこしだけ高い位置にある窓を、彼女は見た。かつては映写室であり、いまではライト・マンのおじいさんが、この窓からステージに照明を送ってくる。ライト・マンは、サウンド・マンをも兼ねる。そのおじいさんは、まだ部屋に入っていないようだった。
 ステージの中央から、客席のあいだをまっすぐにのびているエプロン・ステージを、彼女は歩いた。エプロン・ステージの突端は円形になっていて、この部分だけは回転する。エプロン・ステージの突端まで歩いた彼女は、歩きながらしなやかに腰を落としてしゃがみ、ステージに軽く片手をつき、両脚をそろえ、ひらりとステージの下に降りた。降りたときには、すでに彼女は、まっすぐに立っていた。
 壁のまえを彼女は左へ歩いた。パッドの入った重い観音開きのドアから、せまいロビーに出た。開いたままの入口のドアを抜け、劇場の外に出た。大きく張り出している軒の下は、ひび割れが縦横に走ったコンクリートのフロアだ。そのフロアの端まで出て来て、軒を支えている支柱のわきに、彼女は立った。支柱に片手を添え、桔梗を持っているもういっぽうの手は、太腿にそって垂らしていた。
 彼女の目のまえに歩道があり、そのむこうは、往復で八車線分の広さのある道路だった。歩道に人の姿はなく、広い道路は彼女の左右へまっすぐに抜けていた。劇場はひとつのブロックのちょうど中間に位置していて、彼女が左右へ大きく顔を振りむけると、そのどちら側にも、交差点が見えた。交差点にも、人の姿はなかった。道路とそれに面した建物とに、明るく陽が当たっていた。建物はほとんどが平屋建てであり、たまに、二階建てがあった。
 風が、吹いた。彼女が片手に持っている桔梗と、彼女の髪が、吹き抜けていく風に、揺れ動いた。彼女の体をかすめるようにして吹きぬけていったその風を追いかけるように、彼女にとって左側の遠くから、オートバイの排気音が聞こえてきた。ゆっくり、彼女は、顔を左にむけた。交差点のさらにむこうを、一台のオートバイが、こちらにむかって走って来ていた。どっしりとした重量車であることは、遠くからでもわかった。豊かに広がる低音を中心にした排気音は、道路の広さとその上にある明るい陽ざしの空間に、よく似合っていた。
 顔を左にむけたまま、彼女は、そのオートバイを見守った。オートバイは、交差点の手前まで来た。そして、大きくカーヴを描いて、その交差点を左に曲がっていった。建物の影にかくれてオートバイはすぐに見えなくなり、排気音はすこしずつ遠のいた。交差点を左へ曲がるカーヴの頂点で、そのオートバイの年若いライダーの右腕が陽ざしに光ったのを、彼女は見た。
 排気音が聞こえなくなって、彼女はその場を離れた。劇場に入っていった。ビキニの後ろ姿が、ロビーの影のなかになかば吸いこまれ、内側のドアにむかって歩く途中で彼女の姿は見えなくなった。
 ほの暗いなかをエプロン・ステージの突端まで歩いた彼女は、さきほどそこから降りたときとおなじように、ステージに片手をつくと、両脚をそろえ、きれいにステージの上に飛びあがった。反動をそのまま利用して、彼女はまっすぐに立った。
 ライト・マンのいる部屋を、彼女は見上げた。明かりのついている窓のなかに、ライト・マンのおじいさんの顔が見えた。ステージの上の彼女を見た彼は、窓に顔を寄せた。そして、はじめますか、と表情だけで彼はきいた。彼女は、うなずいた。
 PAをとおして、すぐに、音楽がはじまった。彼女が自分の踊りのために使っている曲のうちのひとつだ。彼女は、踊りはじめた。エプロン・ステージの突端で踊りはじめ、踊りつつエプロンを下がっていき、半円型に横にのびている舞台にもどった。彼女の体が持っている鋭い力のようなものが、音楽にあわせた動きのひとつひとつとともに、いろんな方向にむけて、のびやかに発散された。見ていると、次第に気持ちが高揚してくるような踊りを、彼女はやってみせた。
 舞台の袖のすぐまえまで彼女がもどって、音楽は終わった。彼女の踊りも、そこで終わった。微笑して、彼女はライト・マンの部屋を見上げた。窓のむこうで、おじいさんは、うなずいていた。桔梗を持った手をあげてみせ、彼女は袖のなかへ姿を消した。
 舞台の袖から階段を降りて来た彼女は、台の上にある花瓶のまえで、足をとめた。持っていたひと茎の桔梗を、彼女は花瓶のなかにかえした。
 劇場の裏から、彼女は外に出た。陽ざしが、彼女の裸の体を包んだ。地面に敷いた廊下の上を歩いていく彼女に、風が吹いた。髪が、うしろから彼女の顔をとり囲むように、その風にあおられた。

(初出・底本:片岡義男エッセイ・コレクション『彼の後輪が滑った』太田出版 一九九六年)

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