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母の三原則

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 あなたのお母さんに関してもっとも印象に残っていることはなにですかと、ごく最近、人に訊かれた。尋問の雰囲気をかすかに感じさせるような、きわめて真面目な質問のしかただった。母親その人のものとして、もっとも強く特徴的だったのは関西弁でした、と僕は答えた。そのとおりだからだ。僕が知っている母親は、なにか意図があって東京の山の手言葉を喋るとき以外は、その一生をとおして強烈な関西弁の人だった。

 僕の母親は近江八幡で生まれた。昔から続いた地元では知られた数珠屋の末娘だ。その数珠屋の始まりは、例によってと言うべきか、聖徳太子が地場産業の重要性を人々に説いてまわった時代までさかのぼるという。母親が二十代の頃からその家は傾き始め、彼女が自分の母親の葬式を自分で盛大に出したところで、家は完全に倒れた。母の父親はそれより少し前に亡くなっていた。

 近江八幡の言葉は母親の母国語だった。単なる関西弁のひとつではなく、母国語としての近江言葉だ。家が傾いていくのをのあたりにしながら自立の必要に目覚めた母親は、当時の女性にとってもっとも確かな、そしてほぼ唯一であったはずの自立の道として、学校の先生になることを選んだ。師範学校は奈良だからそこで奈良の言葉を身につけ、いまで言うアルバイトで教授の秘書のような仕事をして京都で忙しく過ごし、京言葉をかなりのところまで会得したようだ。かなりのところまで、と母親の没後二十年近いいまでも僕が言うのは、京言葉には自信がなかったように僕は感じていたからだ。京都の人として都に暮らした体験はないし、性格が京都の人ではなかった。そのかわり大阪弁は小気味よく多彩に堪能だった。大阪弁には大きく分けて五とおりあると母親は言い、使いわけてみせるのを隠し芸のようにしていた。母親が自分との親和性をもっとも感じていたのは河内弁だったようだ。

 このように根っからの関西言葉の人だった母親だが、息子の僕は言葉が関西ふうになるというような影響を、まったく受けていない。母親の関西弁が僕に伝染することはいっさいなかった。僕は東京言葉の東京の坊やであり、五歳から十年近くを山口県と広島県で過ごしたにもかかわらず、どちらの方言に染まることもなく東京言葉でとおした。身も心もその核心の部分においては、五歳までに僕は出来上がっていたからだろう。

 言葉の表面においては母親の影響を受けてはいないが、母親が自分の言葉に託した人生の原則のようなものは、僕をいまの僕へと導いていくにあたって、決定的と言っていい力を発揮した。人生の原則とは、母親がもっとも頻繁に口にしていた、「かまへん、かまへん」「あほくさ」、そして「やめとき、やめとき」の、三つだ。これを僕は「母の三原則」と呼んでいる。

 小学校で一学期が終わり、僕は通信簿をもらって自宅へ帰る。母親に見せる前に、「僕の成績は悪いですよ」と断ると、「かまへん、かまへん」と母は言う。「父兄が感想を書いて捺印する箇所があります」と言う僕に対する母親の反応は、「あほくさ」のひと言だ。「成績が下から五番目までの生徒は、休みのあいだに補習授業を受けるのです」と、下から三番目の僕が言うと、母親は「やめとき、やめとき」と答える。

 母親の声による関西弁の言いかたで、この「母の三原則」は、幼い僕の五臓六腑にあますところなく浸透したはずだ。少なくとも僕が小学生のあいだ母親はずっとこうだったから、学校の勉強だけではなくあらゆる領域で登場した「母の三原則」は、それを母親が僕に向けて口にするたびに、僕の内部へ深く入り込んでそこにとどまることとなった。そしてそれはそれ以後の時間のなかで発酵を積み重ねていき、そのときどきの発酵具合が段階的に、僕という人の気質を作っては現在にいたっている。発酵はもうそろそろ終わったかというと、けっしてそんなことはなく、いまでも僕の内部でふつふつと続いている。

 内面においてこれだけ端的に、しかも深く長続きする性質の影響を、僕は母親の関西弁をとおして受けとめたから、おそらくそれゆえに、表面的に母親に似て言葉が関西ふうとなり、「せやなあ、そらええわあ、ほなそうしょ」などと喋る人になることは、絶対と言っていいほどにあり得ないことだった、という理屈を作って僕は自分を納得させている。

底本:『ピーナツ・バターで始める朝』東京書籍 2009年

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2017年5月14日 00:00
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