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風景のなかにむき出しでほうり出されて

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 ロード・マップに印刷された道路をぼんやりとながめているだけで、かつて体験した旅を、次から次へと、思い出す。

 高速の長距離バスで走りぬけてしまうなんて、ほんとによくない。どうしてもバスをつかうなら、町へ着くたびに降りて、走り去るバスの尻を、なんのあてもなく見送ることだ。

 しかし、あの四角なガラス窓には、まいってしまう。いつも外の景色がテレビのように退屈で、意味もなく薄味なものに見えるから。

 外界とは遮断されたバスの内部から窓ガラスごしに見る光景は、まさにテレビの画面だ。バスの外に降り立つと、外界が自分をのみこみ、じわあっと時間をかけて、自分はその生きた外界の一部となっていく。あらゆるものがようやくテレビではなくなり、実体のあるものとして自分と有機的に触れあいはじめる。この関係は、バスのなかに乗りこみ走りはじめると、そのつど、断ち切られる。

 自分が旅をしているスペースと自分とが、常に直接的に触れあったままでいられるような、開かれた旅のしかたはないものだろうか。窓ガラスごしに退屈な外をながめつづけるというような、閉ざされた旅ではない旅は。

 オートバイの旅には、満足がいく。オートバイで走るとき、自分は風景のなかにむき出しのままほうり出されている。自分をとりまく箱がないから、なんといったって開放感がすごく充実している。視線の位置もいいし、足は、のばせば大地につく。

 どこでどれだけとまっていようと、自由だ。旅をしていく空間、そしてそのなかにあるさまざまな人やものと接触するチャンスがとても多くなるから、さきへ進むスピードは落ちる。

 これは、いいことなのだ。最低制限速度のあるような道路を、箱のなかにとじこもって突っ走るのは、あまりいいことではない。たとえば自分が運転する自動車だってそうだ。

 正面のガラスが、テレビの画面に見えてくる。すぐわきの、ドアの窓も、またべつのテレビだ。

 七十時間ちかくぶっとおしで走ったときには、車内にコークやスプライトのカン、紙コップ、ロード・マップの不必要な部分、ティシューなどがむちゃくちゃに散乱し、うしろの席ではハワード・ジョンソンのチェーン店のハンバーガーの食べのこしがくさっていた。その車内のこと、ガス・ステーションのこと、そして、今日はどこまで走り、いつ運転を交代するかに関して相棒と険悪に怒鳴りあったことしか記憶にない、異常な体験だった。

 ガス・ステーションに入るたびに、ロード・マップからこれから走る部分をひき裂き、粘着テープでダッシュボードに貼りつけた。目的地についたときには、ダッシュボードに地図を貼りつけたまま、中古車屋にその車を売り払ってしまった。あの地図は、誰かの手によってなんの感慨もなくはがされ、丸められ、すてられたにちがいない。

(底本:片岡義男エッセイ・コレクション『彼の後輪が滑った』太田出版 一九九六年)

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2017年5月1日 00:00
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