アイキャッチ画像

いま高校生なら僕は中退する(1)

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

 一九九七年の日本で、全国の公私立高校から中退した少年少女の数は、十一万一千四百九十一人だったという。生徒数ぜんたいに対して、この数は二・六パーセントの中退率だそうだ。統計をとり始めた一九八二年以来、最高の数字に達したということだ。このことを一九九八年の年末に報道したある新聞によれば、「先進国でトップという進学率の高さから考えれば、この中退率はむしろ低いレヴェルである」と、文部省の幹部は言っているそうだ。

 先進国でトップの進学率とは、日本全国の中学生たちのうち、じつに九十七パーセントまでが高校に進学するという、異常事態のことだ。高校への進学率が九十七パーセントであるという状態は、人々が望んで手に入れた幸福ではなく、日本国家がその固い方針として遂行して到達した結果だ。

 戦後の日本は敗戦から会社立国によって国を興した。経済を拡大していくことが至上の命題だった。全国に林立した会社群がその命題を引き受け、国家は会社群を保護し指導し、巧みに管理して厳しく統制した。

 会社にとっては、そこで働き続けてくれる人材が必要だ。能力やものの考えかたの均一に揃った、会社に忠実で勤勉ひと筋の人材を、戦後の日本は大量に必要とした。その必要に、日本国家の教育制度は応えた。会社に雇用されて働く大量の人材を、教育システムをとおして、日本国家は社会へと送り出し続けた。

 ある時期までの日本経済は、こういった大量の人材供給に支えられた人海戦術で、自らを拡大した。日本経済の拡大のための人海戦術、それが九十七パーセントという高校進学率だ。戦後の日本という、世界に類を見ない異常事態をあらわす数字のひとつ、それが九十七パーセントという高校進学率だ。

 人海戦術の時代はすでに終わった。しかし国家はその方針を転換しようとはしない。世界一の高校進学率から見るなら二・六パーセントの中退率はまだずいぶんと低い、などと見当違いのことを平気で言う。なんでもいいから文句を言わずとにかく会社に入って働け、と日本国家に命令されている若い人たち、それがいまの日本の高校生だ。

 中退した高校生たちの中退理由を見ると、もっともらしく内容別に区分けしてあり、それぞれパーセント比がつけてある。学校はやめにして就職したい、進路を変更したい、もともと高校に入りたかったわけではない、勉強はしたくないし好きでもない、学校になじめない、というような理由は区分けしても意味はなにもない。ぜんぶまとめてひとつなのだ。いまの日本で高校生をするなんてまっぴらだ、というただひとつの理由によって、高校からの中退者の数が過去最高に達した。

 魅力のある高校作り、入学前の進路指導の充実、生徒の関心に応える教科の導入、などを文部省は進めていると言うが、いまの日本の文部省にそのような能力や見識はない。だからこういうことはすべて嘘なのだ。噓というものは、戦後の日本を作った裏ルールを支える中心軸だ。

 中退者のなかには進路を自主的に選びなおす人もいるから肯定的な中退者も多いのだ、というようなコメントも嘘だ。出来るだけ多くの若い人を一律に強制的に高校へ押し込むという、これまでどおりの教育システムを日本は守っていこうとしているだけだ。そしてそのシステムはとっくに破綻している。

 高校中退者数、十一万一千四百九十一人のうちひとりはこの僕だ。僕がいま高校生なら、僕というひとりの人が加わることによって、十一万一千四百九十一人の中退者は、十一万一千四百九十二人になるのだ。このことに僕は絶大な確信を持っている。いま僕が高校生なら、状況としてもそして自分の意志としても、僕は絶対に中退する。それ以外に道はあり得ない。

 僕が現実に高校生だったのは、いまからずいぶん前のことだ。単に時間的に昔だったと言うよりも質的に三つか四つ前の日本だった、と言ったほうが正確だ。戦後の日本は経済復興をなしとげていき、一九五六年には、もはや戦後ではないと、日本政府はその経済白書をとおして宣言した。これまでの日本とは内容的にまったく別の日本になりましたという意味の宣言だ。

 戦後の日本における、第一回めの質的転換が宣言されたすぐあとの時代に、僕は高校生だった。いまとはくらべものにならないほどの、牧歌的な時代だった。進学を旨とした都立高校だったが、先生たちによる生徒の管理は事実上のゼロだった。すべてはなごやかで柔和で、それを自由と言うならそう言ってもよかった。そんないい時代のなかでなおかつ、僕は学校の勉強にいっさいなじめなかった。いまひとつずつ思い出すどの教科も、自分にとってなんの必要も感じられない、おそろしく退屈でしかも強制的な、詰め込みと暗記の世界だった。

 その高校には入学試験があり、僕はそれを受けて合格したのだったが、この程度のことは少年が持っている勢いで可能になったことにしか過ぎない。入学してからの僕は、一年から三年まで、成績はたいへん悪かった。よくあれで卒業出来たものだと、いまでも不思議に思う。 かの全員を大きく引き離して、成績はビリだったはずだ。

 試験の点数は常に〇%かそれに近い状態だった。名前をきちんと書くとそれだけで三十五点。そして年、組、生徒番号のそれぞれが書いてあれば、どれも十点ずつ。合計して六十五点で、それは立派な及第点という裏ルールの存在を聞いたことがある。僕はおそらくその裏ルールに助けられて、高校を卒業した。

 試験にいつも〇点を取っても、先生たちからことさらに問題児扱いされることは、皆無だった。隙間の多い、ゆるやかないい時代とは、こういうことでもあった。学校そのものになじめなかったわけでもない。非行の方向へ傾いて攻撃的になる、というようなこともなかった。そこまでしなければならない必然は、どこにもなかったからだ。僕は高校生であることによって、充分に守られていた。試験でいつも取る〇点は、守られた状況のなかでの、陳腐な余興のようなものではなかったか。

 人として知っていなくてはならないことには、その上に立っての展開が不可能であるから、基礎的な勉強は大事である、ということは高校生の僕にもよくわかっていた。しかし教室での勉強や試験は、大事だと認識していた基礎的な勉強とは、すさまじく乖離していた。その乖離に対する僕なりの意見が、〇点の答案だったということにしておこう。

(2)につづく[全2回]

(『坊やはこうして作家になる』2000年所収)

関連エッセイ

1月16日 |早稲の田に風はほんとに吹いたか


1月17日 |弁当


3月1日 |忘れがたき故郷


5月12日 |このとおりに過ごした一日


7月11日 |噓と隠蔽の国


11月11日 |人生に成功したければ、言葉を勉強したまえ


2000年 『坊やはこうして作家になる』 勉強 学校 戦後 日本 高校生
2017年3月6日 05:30
サポータ募集中