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彼女は『ラスト・ショー』の町に生きる

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『ラスト・ショー』という映画があったのを覚えているだろうか。ピーター・ボグダノヴィッチ監督がつくった白黒スタンダード画面のアメリカ映画だ。

 封切り公開されてからもうかなりの期間がたっているが、観た人たちの心には深い印象をいまでも落としつづけているようだ。

 人と話をしているとき、よくこの映画が、ひきあいに出される。映画の話をしていると、「私は『ラスト・ショー』のあの感じがわりと好きなんですけど」とか、「アメリカ映画でいうと『ラスト・ショー』のような映画にしたいんです」というぐあいに、自分たちが心のなかに抱いているイメージを具体化するときの足場のひとつとして、『ラスト・ショー』は役立っているような感じがある。

 ぼくも『ラスト・ショー』は観た。テキサスの田舎町の、冷たい北風が土ぼこりといっしょになって吹いてくる感じなど、よく出ていて、丁寧につくった映画だった。面白く観ることはできたけれども、しかし、全面的にこの『ラスト・ショー』に賛成するわけにはいかない、という気持ちが、かなり強くあった。

 町にただひとつの映画館と玉突き屋、そしてカフェを経営していたサム・ザ・ライオンが老齢による心臓マヒで死んでからしばらくして、映画館が閉館される。明日からはこの映画館に映画がかかることは二度とないだろうという、最終上映日、つまりザ・ラスト・ピクチャ・ショーの夜に上映される映画が、映画『ラスト・ショー』のなかでは、『赤い河』なのだ。『赤い河』は、いかにもできすぎでいけない、よろしくない。優等生的インテリふうな正解主義がはっきりと感じられ、賛成しかねる。

 それから、全編にわたってバックに流れる音楽が、一九五〇年代という時代設定によるカントリー音楽なのだが、この音楽の選曲が、これはまちがいだよ、とはっきり断言できるような選曲なのだ。サントラ盤のLPが出ているから、聴いてみるといい。一九五〇年代、朝鮮戦争がおこなわれていたころのアメリカの、テキサスの田舎町の雰囲気を再現するためにこんなに大まともな、普遍的な選曲しかできないのでは、困ってしまう。

 この選曲ゆえに、『ラスト・ショー』はたいした映画ではないと勝手に判断し、ぼくはながいあいだ観ずにいた。

 さて、この映画『ラスト・ショー』だが、友人たちとの話のなかにあまりにもたびたび登場するので、すこし気になりはじめた。

 あの映画をもう一度観なおす気にはなれないので、原作小説を読んでみることにした。原作はラリー・マクマートリーという人が書き、題名は『ザ・ラスト・ピクチャ・ショー』という。一九六六年に初版が出て、ペーパーバックで一ドル二十五セント。ペーパーバックも、ほんとうに高くなったものだ。

 ペーパーバックの表紙には、主人公のサニー・クロフォードとおぼしきハイスクーラーが、高校のフットボール・チームのコ・キャプテンのレターをつけたジャケットを着て、時代の雰囲気を感じさせるジュークボックスにもたれて立っている。表紙や裏表紙に刷りこんである宣伝文句とともに、読みたい気持ちをそそってくる。

スクリーンショット 2017-01-26 06.53.26
The Last Picture Show,Larry McMurtry
1966[ラスト・ショー|早川書房|1975]*本文で言及されている表紙は見つからず

 ぼくは読んでみた。じつに楽しく読んだ。ディテールの描写のなかにアメリカふうなあたたかいユーモアがいいぐあいに満ちていて、読みながら何度も笑ってしまった。映画館の雑役を担当しているおばあさんはひどい近眼でしかも耳が遠く、いま上映中のフィルムがニュースなのか短編のコメディなのかを判定するには通路のまんなかあたりまで歩いてこなくてはいけない、というような描写が、アメリカの小説らしくていい。

 作者のラリー・マクマートリーは、テキサス州のウィチタ・フォールズという田舎町の出身で、この小説は彼のホームタウンに愛をこめて捧げられている。アメリカの小説によくあるように、ごく普通に進行する時間の横軸にそって、エピソードがずらっとつなげてある。たいへん読みやすい。登場人物の誰もがくっきりと造型されていて、優秀なできあがりだ。

「観てから読んだ」わけだが、映画は原作をしのいではいなかった、というのが正直な感想だ。映画は原作を忠実に絵にしているが、もっとも大事なところが抜け落ちている。

 ラスト・ピクチャ・ショーの夜に上映されるのは、オーディ・マーフィがゲイル・ストームと主演した西部劇『テキサスから来た男』になっている。『赤い河』ではない。もっとも、「この映画館に関する思い出が次々に浮かんできて、やはり『ウィンチェスター銃’73』や『赤い河』クラスの映画でないと画面に気持ちを集中させることができない」という文章のなかに『赤い河』が登場してはいるけれども。こういったことは、しかし、こまかいことだからどうでもいいとして、もっとも大事なのは、高校のフットボール・コーチの奥さんだ。

 映画のなかで描かれている彼女は、粗野な夫と心は断絶したまま、子供もなしに中年になってしまい、自分を見失って情緒不安定になっている、かわいそうだけどさえない女、という感じだ。

 小説でも設定はおなじだが、サニー・クロフォードとの肉体関係がはっきりと描かれていて、ここがもっとも感動的だ。

 彼女、ルースは、四十歳になる現在まで、一度もオーガズムを体験したことがない。夫とのSEXのとき、すこし気持ちがよくなって自分から腰を動かしたりすると、夫は激怒し、はしたない女め! といって彼女をひどく叱る。

 オーガズムをこうして封じこめられているルースは、子供を産みたい、という強い気持ちもながいあいだ持ちつづけてきた。だが、子供はない。自分の内部から生命をひとつ産み落としたい、という強い願望は、かなえられないまま、四十歳になってしまった。

 このルースが、自分の息子にしてもいいような年齢のサニー・クロフォードと肉体関係を持つ。はじめのうちはうまくいかないが、やがて、ルースにとってはじめての、素晴らしいオーガズムがやってくる。

 オーガズムの波を息もたえだえに感じつつ、ルースは、子供を産みたい、という願いもかなえる。つまり、いま自分はサニー・クロフォードの体とつながっているのだが、サニーが自分の内部に入ってきているのではなく、いままさに自分はサニーを産み落としつつあるのだ、というふうに、自分の心の内部で、サニーとの関係を逆転させる。この、きわめて孤独な心の営為によって、ルースは、宗教的と言ってさしつかえないほどのオーガズムの高みにまで、いっきょにのぼりつめる。

 こういったことは、映画『ラスト・ショー』では、描かれていなかった。

 ルースには、しかし、救いはない。サニーといつまでも幸せに暮らせるわけではないし、夫を離れて自立できるわけでもない。夫との関係が好転する見込みだって、ないに等しい。オーガズムの体験は心の内部にしまいこまれたまま、テキサスの田舎町という、荒涼たる孤独の現場のただなかで、一日また一日と、しなびていかなければならない。

 このような孤独を、観念的になったりはせず、具体的に、しかも独特のとしか言いようのないユーモアをもって、絶望するでもなく、かといってむやみに明るい明日を希望するでもなく描いていくことは、日本の小説にはできないし、思ってもみないことなのではないだろうか。

 以上、『ザ・ラスト・ピクチャ・ショー』を読んでみて感激したぼくからの、レポートだ。

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』太田出版 1995年

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2017年1月26日 05:30
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