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こうして覚えた日本語

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 漢字の口(くち)という字は、子供の僕にとっては、ひとつの小さな四角だった。四角い一区画、つまりワン・ブロックだ。この認識は片仮名のロ(ろ)に対しても、まったくおなじようにあてはまった。この口というワン・ブロックのまんなかに、横に向けて一本の直線を端から端まで引くと、見てのとおり口というワン・ブロックは上下ふたつに分かれて、トゥーブロックスとなる。二区画だ。そしてこれは日という字であり、その意味はディなのだという。ワン・ブロックが口であり、それを上下二つに区切ってトゥー・ブロックスにしただけで、口は日となる。そして意味上の堅密な連関は、 口と日とのあいだに、なにひとつない。

 口というワン・ブロックを、横線一本ではなく二本で三つに区切り、スリー・ブロックスにすると、それは目という字なのだった。口から日へ、そして目へ。かたちの上では整然たる必然性があるのに、意味の上ではなんの脈絡もなしにこうなる。いったいこれはどういうことなのかというあたりから僕の漢字の勉強は始まった。

 僕は冗談を書いているのではない。本当にこうだった。僕は僕なりに苦労している。目の下に片仮名のハをつけて貝になるのは、魔法のおまじないのようなものとして受けとめた。目の下に横棒を引き、その下にハをつけると道具の具になることも、いま少し複雑な呪文の手続きのようで面白かった。

 ワン・ブロックを縦の直線でふたつに区切って出来る字、というものは日本語のなかにはないのだと知ったが、縦と横の直線をそれぞれ一本ずつ使ってワン・ブロックのなかを四つに区切ると、その字は田んぼの田になる、田中くんの田という字だ、と教えられたときには、この先どうなることかと真剣に不安だった。この字は四区画ではなく、田んぼという現実のものをまず図案化し、それをさらに抽象化するかのように、最小の一単位において固定させたものだよ、交わる二本の直線はあぜ道だよ、そしてその上下左右にある四つのスペースは、稲を植えるあの水をたたえた水田だよ、と教えてくれた人がいた。この教えを得てようやく、僕は日本語の漢字世界への扉をくぐることが出来た。

 田という字は、もののみごとに、水田耕作のあの田んぼではないか。目もそうだ。縦置きになっているけれど、それは抽象化されているからに過ぎない。なかにある二本の横棒は瞳だ。日は太陽だという。四角は丸の抽象化された姿だ。なかの横棒はひょっとしたら黒点かもしれない。鏡の前に立ち、出来るだけ四角になるように口を開くと、見よ、自分の顔のなかに口という漢字があるではないか。幼いある日、このようにして僕は、口と目というふたつの漢字を、自分の顔のなかに確認した。そして田んぼのあるところまでいき、あぜ道をいろんなふうに歩いて、田というひと文字を全身で認識したのだった。

 片仮名にはまた別の苦労があった。僕にも読めるようにと、アにAとルビを振った人がいて、おかげでいまでも片仮名のアは、頭のどこかでエイという音なのだ。その人はクにQとルビをつけ、 ケにはKAY、 コはKAWだったから、僕のカキクケコはカキキューケイコウとなり、以後しばらく混乱は続いた。

底本:『自分と自分以外──戦後60年と今』NHKブックス 2004年

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2004年 『自分と自分以外ー戦後60年と今』 子供 少年時代 漢字 片仮名 言葉 読む
2016年11月18日 05:30
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