アイキャッチ画像

鉛筆を削る楽しさ

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

 僕は鉛筆を削るのが好きだ。鉛筆そのものも、そして鉛筆でなにか書くのも好きだが、削るときがもっとも楽しい。だから僕は削るために鉛筆を買う。僕の好みに合うのは、アメリカの鉛筆だ。西ドイツやイギリスの鉛筆も悪くないけれど、アメリカの鉛筆に僕はもっとも大きな許容度のようなものを感じる。

 アメリカの鉛筆には種類が多くない。ほんの二、三のメーカーによる、息も絶えだえの独占、といった状態なのではないだろうか。しかし、あの黄色い色とおおざっぱな感触は、まさに鉛筆のものだと僕は思うから、主としてアメリカの鉛筆を削って楽しんでいる。

 引き出しのなかには、削った鉛筆が数十本、ざくざくとある。ああでもない、こうでもないとアイディアをつつきまわすとき、僕は鉛筆を使う。削った数十本は、いつのまにか芯が減ってくる。芯が減っているのが二十本もたまると、僕は削りはじめる。

 ナイフはポケット・ナイフを使う。ウエンガーやヴィクトリノクスによるスイス・アーミー・ナイフの、刃が左右にふたつだけついている小さなナイフからはじまって、芸術品のような出来ばえのかなり高価なものまで、さまざまなメーカーのポケット・ナイフが、これも引き出しのなかにたくさんある。適当に取り替えながら、いろんなナイフで何本もの鉛筆を僕は削っていく。

 鉛筆を買うときの楽しさは、削るときの楽しさにつながっている。書いているときも楽しいが、削るときがいちばんいい。削って楽しそうな鉛筆を見ると、僕はそれを買ってしまう。日本の鉛筆は、値段の安いものに、ときたまいいものがある。高くなるにつれて、つまらなさも比例して高まるようだ。なんという残念なことだろう。

 鉛筆を削っているときの時間は、ほんとうに自分だけの時間だ。誰にも邪魔されない。誰も入ってはこない。作業としては単純だが、両手の指の使いかたはきわめて基本的であり、指先でおこなう作業としては普遍に到達しているのではないか、とも僕は思う。

 細い六角形の棒のなかに芯があり、木を削るとその芯が出てきて、その芯で紙の上に文字を書き図形を描くことが出来るとは、なんとみごとに人間の核心にせまっていることか。人間を象徴するものをひとつだけあげよと言われたなら、僕はなんらためらうことなく、一ダースの鉛筆とそれを削るポケット・ナイフを、人間の象徴として提出する。

 ただ書きとめるだけのものは筆記具でしかないのだが、鉛筆はそれを手に取る人にものを考えさせる不思議な力を持っている。鉛筆の消費は下降を続けているという。ものを考えるのがいやな人たちが増えているのだろうか。

(『アール・グレイから始まる日』1991年所収)


1991年 『アール・グレイから始まる日』 アメリカ ポケット・ナイフ 文房具 鉛筆
2015年10月19日 14:23
サポータ募集中