VOYAGER

片岡義男.com 全著作電子化計画

MENU

お知らせ

評論『日本語の外へ』より3作品を公開

『日本語の外へ』(底本:角川文庫/2003年)より3作品を本日公開いたしました。

 戦後の日本は、目標の達成に向けて、圧倒的に多数という意味での全員が、不断の努力を内発させつつ同じ方向を見て同じことを考え、価値やルールを細かいところまで共有しながら前方への強い期待感を均質にそろったかたちで抱き続ける、という複雑で緻密なシステムを稼働させ維持し続けて来た。
 確立され独立して存在し、全体とは関係なしに個別に評価される個人を仮に真の個人と呼ぶなら、日本システムのなかに真の個人はさほど必要でないことは確かだ。だからそのシステムには、真の個人による真の競争は存在していない。予測が不明確なことは、日本システムのなかではすべて嫌われ回避されてきたのだ。あらかじめ約束されている結果を誰もがめざす。そのような毎日を誰もが送る。なにを体験してもそれは全体のなかに身を置いている人としての体験だ。だから基本的にそれはみんなのものであり、なにを体験しても真に個人のものとはならない。。

こちらからお読みいただけます

 文明を得てからの人間の歴史はたいへんに単純だ。世界の歴史は資本主義によってひとつにつながり広がっていくだけの歴史だ。資本主義は007のドクター・ノオのようにどこかに秘密基地を構え、世界制覇の陰謀を十五世紀から継続させているわけではない。ではいったいなにが資本主義をいまも進行させているのだろうか。資本主義を進行させているのは人間だ。人間の歴史は、自然にごく近い状態から急速に離脱した。以後、そのときどきの限度いっぱいに、さらなる離脱を求めては遂げていく歴史だった。より不自然に、より人工的に、そしてよりいっそう極端に。それが人間のテーマであり、同時に資本主義の基本命題でもある。
 アメリカはたいへんに実用的な国だ。フリーダムやデモクラシーという理念も、アメリカにおいては最終的には実用、つまり幸福の追求に奉仕する。戦後の日本はアメリカに合流し、独自のかたちで資本主義の次の局面を作った。アメリカの提唱するフリーダムやデモクラシーに対して、基本的にはなんの賛同もコミットメントもしないままに、だ。。

こちらからお読みいただけます

 戦後の日本とアメリカとの関係はじつに奇妙な関係だ。突進していくほかない資本主義がその奔流のただなかで生んだ関係だから、前例はどこにもなくて当然だろう。そしてお互いの相違についての真の理解を行う作業を、どちらの国も五十年にわたってせずにきたことの結果として出て来たのが、日本は異質である、という論だ。
 1992年の1月、ブッシュ大統領が日本を訪れた際の晩餐会での宮沢首相のスピーチは、日本とアメリカの異質さによる対立関係を見事に映し出した。そしてこのエピソードをもって、日本異質論はその頂点と終わりとを同時に飾った。個や近代化なしでもやってこれた日本は、これまでとは比較にならないほどの複雑さを持った世界各部との厄介な関係へと押し出されていくプロセスのなかで、世界とおなじルールに立つ実務的な国へと変わっていくほかに道はなくなった。。

こちらからお読みいただけます

2022年8月30日 00:00 | 電子化計画

このエントリーをはてなブックマークに追加