アイキャッチ画像

信号待ち

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

 夏の残り香の最後の部分が、今夜のうちはまだある。しかし、明日になれば、もうどこにも見あたらないのではないか。と、ふと思ったりする、そんな夜だ。
 夜は更けていた。午前二時を、すぎている。夜の底の、いちばん低い部分だ。
 この時間になると、夏の残り香がすこしでもあるあいだは、時間に粘りのようなものが、できてくる。
 そして、その粘りのために、時間の進行していくスピードが、すこしだけだが、おそくなるような気がする。
 秋になってしまうと、これがなくなる。夜の時間はさらさらとしていて、よどまずにきれいに流れていく。
 交差点の信号が、赤からグリーンに変わった。中西真佐子は、ひとりで乗っている自動車を、発進させた。交差点で信号待ちしていたのは、彼女の自動車一台だけだった。
 交差点をこえながら、彼女は、天井のミラーを見た。すこし距離をおいて、後続車が一台、ミラーのなかに見えた。
 ガラスを降ろしてある運転席の窓から、風が吹きこんだ。
 顔から肩にかけてその風を受けながら、彼女は自動車を走らせた。
 このまま夜を徹して走りつづければ、夏が完璧にフェイド・アウトして秋と入れかわる瞬間を、運転席に吹きこむ風のなかに体験できるのではないかと、中西真佐子は、思った。
 前方に、再び、交差点が見えてきた。コンクリートの巨大な支柱にささえられて左からのびてくる高速道路が、カーブしつつ交差点のうえにのしかかっている。
 頭上にのしかかるその高速道路のカーブには、ふたとおりある。いま真佐子が自動車で走っているコンクリートの重い量感で踏みつぶすように、前方へのびていくためのカーブ。もうひとつは手前へ曲がってくるカーブ。手前へ曲がりつつ、斜めに道路をまたいで越えていき、区画整理によって強引につくった広い道路へ、オフ・ランプの下り坂となって降りていく。
 どちらのカーブも、上下線ともそれぞれ、カーブの部分だけ、おたがいに引きはがされたように分離する。だから、交差点の頭上には、四本のコンクリートの河が、重くのしかかる。
 その交差点の、赤に変わったばかりの信号で、真佐子は、自動車を停止線にとめた。
 ミラーのなかに見た後続車が追いつき、真佐子のクーペの左どなりに、ならんでとまった。
 夜中の交差点で信号待ちをする二台の自動車が、照明灯の明かりのなかに鈍く光った。
 真佐子のクーペは、鮮やかなスカイ・ブルーだ。外国からの輸入車だ。運転席は、左側にある。
 ならんでとまったのも、2ドアだった。ほどよくくすんだからし色の、国産車だ。
 その、からし色の2ドアが、ポンとみじかく、ホーンを鳴らした。
 右手をハンドルに置き、左ひじを窓枠にかけたままの姿勢で、真佐子は、ゆっくり左を見た。
 となりの自動車の運転席から、女性が、真佐子に顔をむけていた。淡く微笑をうかべているその顔を見て、真佐子の顔に大きく微笑が広がった。

「あ、らあ」

と、真佐子は言った。

「やっぱり、真佐子」

相手の女性が、こたえた。

「まあ、どうしたの?」
「どうもしてない。まったくの偶然」
「しばらく」
「ほんと。しばらくねえ」
「元気なの、奈美子」
「元気よ」

奈美子は、運転席の窓から真佐子にむけて、右腕をのばした。
左腕を外に出した真佐子は、親指を下にして左手を逆ハンドにひっくりかえし、奈美子の手を握った。握りあった手を、ふたりで上下に振った。ふたりは、笑った。
手を離して、

「びっくりしたわ、こんなところで」

と、真佐子が言った。

「びっくりは、この私もおなじ」

 奈美子が、こたえた。

「スカイ・ブルーの外車によく似合った、いい女がいるなあと思ってさ。口惜しいからよく見てやろうと思ったら、真佐子じゃないの。中西真佐子じゃないの」
「いい女は、奈美子のほうよ」
「どういたしまして」
「からし色が、素敵」
「秋から冬いっぱい、そして来年の春まで、この色でがんばろうと思って、夏の盛りにとりかえたの」
「よく似合ってる」
「ほんと?」
「ほんとよ。奈美子の雰囲気に、ぴったり」
「甘いだけが取柄の女だって、よく言われるから。色だけでもピリッと、からし色にでもしておこうと思って」

 運転席の窓から顔を出し、快活な声で、奈美子はそう言った。

「からし色のクーペの、川村奈美子」
「そうなの」
「きまってるわよ。ぴったり」
「赤とか、あずき色とかもあったのだけど、妙に女っぽいのよね。だから、この色にしたの」

 ながい、赤信号だった。まだ赤のままだ。

 停止線にとまっているのは、彼女たち二台のクーペだけだった。

「ねえ、真佐子」

 と、奈美子が、言った。

「どうしたの」
「こんな時間に、ひとりでなにしてるのよ。朝帰り?」

 真佐子は、笑った。ならびのきれいな、白い歯が見えた。

「いまはまだ夜中でしょ」
「そういえば、そうね」
「朝じゃないわ」
「ふむ、ふむ」
「それに、私は、朝に帰ったりしないわ」
「どうするの?」
「昼すぎまで、いてしまう。低血圧だから」

 自分に顔をむけてそう言った真佐子に、奈美子は、ウインクした。
 信号が、グリーンになった。

「真佐子も、まっすぐ?」

 正面のガラスごしに前方を指さしながら、奈美子はきいた。

「そう」

 真佐子が、こたえた。
 二台の自動車は、同時に発進した。
 ならんで交差点をこえた。
 高速道路を支えるコンクリートの太い支柱がまんなかに割りこんでいる道路を、前後にずれながら走った。
 ほかに自動車はいなかった。
 頭上に高速道路が黒く空をさえぎり、右側を走っている真佐子のクーぺのすぐ右わきに、コンクリートの柱が連続して何本もつづいた。二台の自動車のあいだに、すこし距離ができた。
 さきを走る真佐子のクーペに、奈美子のからし色の2ドアが、追いついた。
 ならんで走った。
 真佐子は、左に顔をむけた。奈美子が、真佐子を見ていた。ふたりはみじかく微笑をかわし、視線を正面にもどした。
 車首をならべたまま、走った。
 次の信号が、前方に見えてきた。
 信号は、グリーンだった。だが、とまらずに通過できるタイミングではなかった。すぐにオレンジ色に変わった。
 オレンジ色が赤になり、ならんで走る二台のクーペは、減速した。
 停止線の手前に、さきほどとおなじようにならび、とまった。

「その車、きれいなブルーなのね」

 と、奈美子が言った。

「今年の春から、これに乗ってるの」
「はじめて見るわ」
「そうだっけ」
「そう」
「車を変えたという話、してなかったかしら」
「話は、聞いた。電話だったかな」
「そうお?」
「ええ」
「この車を見るのは、はじめて?」
「そうよ。はじめて」
「ということは、おたがいにずいぶん、会ってなかったわけね」
「そういうことだわ」 
「久しぶりに会ってみると、ふたりとも自動車をとっかえていて」 
「男は、どのくらいとりかえたの?」

 奈美子の問いに、真佐子は、窓によせた顔を奈美子にむけた。
 ピラーに後頭部をあずけ、お芝居でけだるい笑顔をつくってみせた。
 そして、おなじくけだるい動作で左腕を窓の外に出し、指さきで夜空を示した。
 その指さきを見てから、奈美子は、視線を真佐子の顔にもどした。

「なんのこと?」

 と、奈美子は、きいた。
 真佐子は、左手の指さきでなおも夜空を示した。
 一瞬おくれて、奈美子の顔に、ぱっと笑いが広がった。

「わかった、わかった」

 と、奈美子は言った。
 真佐子は、うえにあげていた左手を、窓枠にもどした。

「星の数ほど、とりかえたのね」

 と、奈美子が、言った。

「そうよ」
「しばらく会わないあいだに、車もとりかえたけど、男もとりかえた、と」

 奈美子の言葉に、真佐子は、うなずいた。

「星の数ほど」
「奈美子は?」
「砂浜のちかくで、きいて」
「これから海までいこうか」
「砂浜の、砂の粒ほどたくさん、とりかえたわ」
「おたがいに、こりないわね」
「こりない、こりない」
「利口じゃないのね」

 うしろから、オートバイが一台、きた。
 奈美子のクーペの左側を抜け、二台の自動車の前に出た。
 大排気量のオートバイだった。ライダーは、黒い皮のつなぎを着ていた。
 真佐子は、天井のミラーを見た。
 自分たちのうしろに、自動車はいなかった。ずっと後方に、後続車のへッドライトが、いくつか見えた。
 信号のある横断歩道を、ひとりだけ、人が渡った。

「車が妙にすくないわね」

 奈美子が、言った。

「人も歩いてないし」

 彼女のクーペからさらに一車線のスペースをおいて左側は、ガードレールのある歩道だ。ビルと商店の雑多にまじりあった夜中の町なみが、その歩道に面して、つづいていた。
 歩道に、人はいなかった。

「秋なのよ」

 と、真佐子が言った。
 オートバイが、重い排気音を置き去りにして、飛び出した。信号が、グリーンにもどったのだ。
 真佐子と奈美子は、おたがいの自動車を、ゆっくり発進させた。車をならべて、走った。

「まっすぐ?」

 声をはりあげ、奈美子が風のなかへ言った。
 奈美子に笑顔をむけ、真佐子はうなずいた。
 うしろに何台か集まってきた後続車といっしょに、次の信号はグリーンでこえた。
 高速道路を重く背負いこんだ道路は、直線で長くつづいている。
 真佐子と奈美子が車をならべはじめてから四度目の信号も、グリーンで通過することができた。
 次の信号は、幹線道路との交差点だ。立体交差になっていて、いま彼女たちが走っているほうの道路が、深くえぐりこまれたアンダーパスとして、交差する道路の地下をくぐる。このアンダーパスは、直進車の専用だ。
 自分の車のうしろについてほしい、という意味の合図を左手で奈美子におくった真佐子は、スピードをあげた。
 奈美子のクーペとのあいだに、距離ができた。
 ウインカーを点滅させて右の車線に入ってくる奈美子の車を、真佐子はミラーの片隅に見た。
 奈美子のクーペがいなくなったあとを、タクシーが二台、つづけて追い抜いていった。
 アンダーパスが、行手に見えてきた。真佐子のクーぺ、そして奈美子のからし色の2ドアが、アンダーパスの下りスロープに入った。
 かなり急なダウングレードが、ながくつづく。
 頭上は、大きく分厚く張り出している高速道路でふたをされたようにおおわれ、両側のコンクリートの壁は、スロープの底へむかうにつれて、高さを増す。コンクリートの谷の底めがけて、加速のついたスピードで滑り降りていく。
 スロープの底まで、降りきった。
 のぼり坂が、立ちふさがっている。
 加速のついたまま、そのアップグレードに乗りあげるようにして、のぼっていく。
 両側のコンクリートの壁が急速に低くなり、地上へ出る。出た瞬間は、視界がややひらける。幹線道路との交差点は、すでに後方へ置き去りだ。
 次の信号まで、真佐子と奈美子の二台のクーペは、前後にならんで走った。
 信号が見えてきた。オレンジでひっかかる、と判断した真佐子は、早目に減速をはじめた。
 左のウインカーを点滅させながら、奈美子の2ドアが左の車線に出た。どの車線にも、後続車はいなかった。
 真佐子の車と奈美子の車は、ならんで信号にむかった。停止線にとまるすこしまえに、オレンジ色の信号は赤に変わった。

「どこまでいくの?」

 と、奈美子が、声をはりあげてきいた。

「もっとさきまで、まっすぐ」

 真佐子が、こたえた。

「私も」

 こたえた奈美子に、真佐子は左腕を窓の外に出し、頭上の高速道路を示した。

「高速がこの道路を離れてインタチェンジのほうへ曲がっていくところがあるでしょう」
「うん」
「そのさきの、大きな交差点を、左へ」
「私も、その交差点まで。私は、右折するけど」

 奈美子が、こたえた。

「右と左ね」
「ちょっと車をとめない?」
「そうしたいな、と思ってたの」
「コーヒーを飲もうよ」
「ドライブ・イン?」

 真佐子の問いに、奈美子は、首を振った。

「もうじき、左側に、中古車のディーラーがあるの」 
「知ってる」

「中古車がずらっとならんでるそのむこうに、ガードレールによせて、車をとめて」

「いいわよ」
「もうじき」

 真佐子は、うなずいた。
 そして、

「奈美子、まだ秋が深まったわけでもないのに、あんまり陽に焼けてないのね」

 と、言った。

「そう」
「どうしたの」
「シーズンをはずして、海へいこうと思って」
「へえ」
「台風がみんな来てから、南の島へいくの。国内だけど」
「いいわね」 
「真佐子も、焼けてない」
「そうなのよ」
「どうして?」
「私くらいになると、真夏の海辺のビキニ・ギャルでもないのよね」
「私くらいって?」
「ギャルでもないのよ」
「いくつになったの、真佐子は」
「あなたと私は、おない年でしょ。自分自身にきいて」

 信号が変わった。
 奈美子がさきにスタートし、真佐子がつづいた。
 斜めにずれて前後になったまま、しばらく走った。
 行手の左側に、中古車ディーラーの大きな看板が見えてきた。
 奈美子が、みじかくホーンを鳴らした。そして、すぐに、彼女の2ドアは左のウインカーを点滅させながら、左へ寄り、減速した。
 中古車のならんでいる前をとおりすぎてから、ガードレールに寄せて車をとめた。その奈美子の車の前に、真佐子がクーペを入れた。
 二台の自動車のエンジンが前後して停止し、やがてドアが開いた。奈美子と真佐子が、それぞれのクーペから外に出てきた。
 ガードレールをまたいで歩道にあがった奈美子が、斜め前を指さした。
 明るく照明で照らしてある、プレハブの小さな建物を、奈美子は指さしていた。道路からすこしひっこんでいるその建物は、正面には壁もドアもなく、奥の壁にそっていくつもならんでいる自動販売機が、強い照明のなかに見えた。
 真佐子もガードレールをまたぎ、歩道にあがってきた。

「コーヒーの自動販売機があるのよ」

 と、奈美子が、言った。

「なるほど」

 真佐子が、こたえた。

 ふたりは、プレハブの建物にむかって歩いた。

「コーヒーの自動販売機は、奥の壁のいちばん左にあった。一杯が、一〇〇円だった。

 さきに奈美子がスロットに硬貨を入れ、〈おいしさのちがう、いれたてコーヒー〉という標示で区分けされているほうの、ブラック・コーヒーのボタンを押した。
 抽出口に紙コップが落ちてきた。〈抽出中〉と書いてある赤いボタンに明かりが灯った。
 やがて、その明かりが、消えた。
 プラスチックの小さなドアを開き、ブラック・コーヒーの入った紙コップを、奈美子は片手で取り出した。そして、もういっぽうの手で、スロットに一〇〇円玉を入れた。

「あら、いいのに」

 と、真佐子が、言った。

「夜更けの安ものコーヒーくらい、私がおごるわ」

 奈美子が、こたえた。

「私も、ブラック」

 真佐子が言った。

「こっちのほうが、おいしいわけ?」

 いれたてコーヒー、と標示されているほうを、真佐子は示した。

「そうなんでしょうね。こっちは、ほら、普通のインスタントだから」
「ほんとだ」

 いれたてコーヒーのほうの、ブラック・コーヒーのボタンを、真佐子は、もういちど押した。
 真佐子がコーヒーを手にするまで待ち、

「乾杯」

 と、奈美子が言った。
 熱いコーヒーに、ふたりは、唇をつけた。

「意外に、おいしい」

真佐子が、言った。
 
「そうでしょう」
「いつも飲んでるの?」
「いまみたいに、夜のおそい時間にとおりかかって、ふと思い出すと、飲んだりするわ」
「ひとりで?」
「うん」
「ちょっと格好いいね」
「まさか」
「いいわよ」
「でも、寒いときなんか、なかなかいいものよ」
「そうでしょうね」
「ガードレールにすわってひとりで飲んでると、とおりすぎたセダンがバックでひきかえしてきて、男が話しかけてきたりすることもあるのよ」
「なにしてるの、ってきくでしょう」
「そう、そう」

 奈美子は、みじかく笑った。

「コーヒーを飲んでるんです、とこたえると不思議そうな顔して降りてきて、いっしょに来てくれればもっとうまいコーヒーをおごるけどなあ、なんて言うの」 
「男って、みんなおなじこと言うのね」

 プレハブの建物を離れ、ふたりは歩道に出た。
 白く塗った鉄パイプのガードレールに、車道に背をむけ、すわった。
 紙コップのコーヒーを飲み、真佐子は、夜空をあおいだ。

「秋ね」

 と、彼女は言った。
 都心の夜空に、星が思いのほか、きれいだった。

「そう。空気の感じが、もうぜんぜんちがってるから」 
「今日で夏は終り、という感じがする」
「そんな日って、あるのよね。今日で、次の季節に切りかわる、という日が」
「そう」
「真佐子、いま、お家へ帰るとこ?」

 奈美子が、きいた。

「ええ」
「こっちのほうだっけ」
「そうよ。いつものルートからは、すこしはずれるんだけど。それに、お家ではなくて、お部屋だけど。九階の」
「そうだっけ」
「春のはじめに、引っ越したの」
「あら、知らなかった」
「電話番号は、おなじなのよ。でも、奈美子に、通知の葉書を出したわよ」
「そう言えば、覚えてる。葉書のファイル・ブックに入れてあるから」
「だけど、ほんと、久しぶりね」
「こんど、ゆっくり会いましょう」
「ほんとに。ゆっくり会いたい」

 真佐子は、紙コップのコーヒーを飲んだ。紙コップを左手に持ちかえた奈美子は、右手を真佐子の肩に置いた。
 肩を軽くもむように指を動かし、

「この素敵な体を、いまはどんな男のひとが抱いてくれてるの」

 と、きいた。

「年上のひと」
「いつだったか、カクテル・ラウンジで紹介してくれたひとかしら」
「ちがうの」

 真佐子は、首を振った。

「またべつのひと」
「年上が専門?」
「というわけでもないのよ。でも」
「でも、どうしたの」
「いろいろと、楽だから」
「どのくらい年上なの? ひとまわりくらい?」
「もうすこし」
「下?」
「上」 
「楽なわけね」
「そうよ。奈美子だって、知ってるでしょ」
「知ってるかなあ」
「ありのままの自分でいられるから」
「無理しなくていいわけね」
「そうではなくて。いまの自分を、そのままそのとおりに見てくれて、好きになってくれてるから」
「別な自分を演出しなくてもいいわけだ」
「結果としてはそうなんだけど、なんて言うのかなあ、自分が持ってる理想の女性像みたいなものを私にかさねてみたりしないから、そこがいいの」
「リアルなんだ」
「リアルともちょっとちがうわね。おなじくらいの年齢の男性だと、たとえば私がなんにも考えないでじっとしてぼうっとしてるのを見ても、きみって意外にしとやかで落ち着いてるんだね、なんて言ったりするでしょう」
「ある、ある」
「ね」
「しょっちゅう」
「意外にしとやかで落ち着いた女性であってほしい、という理想像みたいなものがあってさ。それを、そういう言い方で、余裕のない感じで、こっちに押しつけるの」
「わかる」
「勝手にそんなふうに思いこみたいわけよ」
「うん」
「めんどくさいから、そう思わせておくと、ちょっとイメージにはずれた場合、きみはまったくわからない女だ、ついていけない、なんてわめくの」
「私も、さんざんあったな、そういうの」
「もう、面倒くさくって。だから、ありのままに見てくれるひとのほうにいってしまうのよね」
「真佐子のありのままというと、なんだろう」

 奈美子の言葉に、真佐子は、彼女に顔をむけた。
 そして、

「なんだろうね」

 と、問いかえした。
 ふたりは、笑った。
 コーヒーを飲み、

「やさしいひとなの?」

 と、奈美子が、きいた。
 真佐子は、うなずいた。

「私の見た目のかたちや雰囲気が、ぴったり自分の好みなんだって」
「ええ」
「なかみも、それなりに好いてもらえてるし。たいしたなかみではないけれど」
「いちばんいいのよ、そういうのって」
「思ってるのとちがったとか、イメージと合わないとかいって、ぎゃあぎゃあ言われるのが、いちばんいやね」
「最低」
「そのイメージというのは、自分の理想の女性像みたいなものなんだろうけど、おっそろしく陳腐なのよ」
「しばらく会わないうちに、真佐子も人なみに苦労したのね」
「おかげさまで」
「美人は、苦労が多いのよ」
「美人なら、奈美子のほうでしょう。正統派の美人よ」

 ガードレールにならんですわって話をしながら、ふたりはコーヒーを飲み、話をした。
 真佐子は、コーヒーを飲みほした。奈美子は、すこしだけ残ったのを、車道にすてた。

「またゆっくり会いましょう。でも、会えてよかったわ」

 真佐子が、立ちあがった。奈美子も、立った。

「電話するわ」
「私も、連絡する」
「右と左に別かれるところまで、ならんで走りましょうよ」
「そうしましょう」

 ふたりはガードレールをまたいだ。車道に降り、それぞれの車へ歩いた。
 紙コップを持ったままドアを開いてなかに入り、ドアを閉じた。
 二台のクーペの、エンジンが始動した。うしろから来る自動車は、なかった。二台とも右のウインカーを点滅させ、発進した。
 奈美子の2ドアが真佐子の左に出てならび、高速道路の下に抱き込まれたような夜の道路を、走っていった。

(『ターザンが教えてくれた』1982年所収)

関連エッセイ

9月3日 |風に恋した


8月30日 |長距離トラックと雨嵐


8月28日 |彼女の林檎


8月20日|ある夏の日のアイディア。一本の川をふたりで縫いあげる。物語のための、ささやかな体験。


5月25日 |故郷へ帰りたい


4月2日|ふたりで語り合う物語。記憶のなかの、過ぎ去った夏。ー(8)より


3月16日 |深夜の地獄めぐり


1982年 『ターザンが教えてくれた』 クーペ コーヒー 奈美子 真佐子 自動車 高速道路
2016年9月7日 05:30
サポータ募集中