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日本語が消えていく

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 戦後から現在までの六十年近い期間のなかを、日本は五年きざみで激変を繰り返してきた。人も社会も五年ごとに、それまでとは質もかたちもメカニズムも、まるで異なる別のものへと転変していった。焼け跡からの復興、高度成長、バブル、その崩壊、そしていまにつながる不況、という五十数年だったが、この年月のなかで十回以上におよぶ質的な激変を、日本は体験した。

 激変とは、それまであったものがすっかり消えてしまい、そのかわりに新しい別のものが急速に普及していくことだ。生活のあらゆる領域で起こり続けたこの激変を、進歩や向上そして発展だと、誰もが信じた。だから戦後の日本には消えたものがたいへんに多い。物やかたちだけではなく、人々の精神的な内面に深くかかわるはずのものが、次々に消えていった。世の中はずいぶん変わったけど日本人はいまも昔もおんなじだよ、という意見はあるだろうけれど、世の中とは人のことであり、したがって世の中の激変は人の激変にほかならない。日本人は昔から変わってないと言う人たちは、この激変にいまだに気づいていない人たちだ。

 なにしろ五年きざみの激変なのだから、前の世代が知っているのにそのすぐ次の世代はまるで知らない、というものがじつに多い。知っているか知らないかは、いつ生まれて育ったかという、世代の問題となった。知らない世代に生まれれば、知らないままに育つことになる。この五十数年間の日本には、こうした世代間の断絶がたくさん重なっていて、しかもそれぞれに深い。断絶したいくつもの世代どうしが、知らないから話が通じない、共通の価値観や歴史観の上に立っていない、という状態だ。このような社会は、崩れ始めたら速いのではないか。昭和の三十年代、そして一九六〇年代や八〇年代などを振り返り、いろんなものを懐かしむことが流行のようになっている。共有したものへの郷愁、あるいは共有したはずという思い込みの確認がそこはかとなく生み出す郷愁が、そのような流行を作り出す。

 もっとも大きく消えたものは、すべての世代を難なくつらぬいて十全に機能する日本語、という種類の言葉だ。このような言葉が消えた結果として、世代を越えて継承され育てられていく文化というものが、いまの日本には大きく欠落している。日本語は自分たちがいつも使っている母国語であり、五十年前もいまもそれはおなじだと思っている人は多い。じつはまるで別物になっているのだが。

 戦後の日本は企業立国の経済至上主義だった。そしてそのすべてを会社が担った。人々は労働力としてあまたの会社に吸収され、社会は会社に取り込まれ、会社のなかこそが社会のすべてであるという、きわめていびつに偏った、あらゆるものが会社仕様、サラリーマン仕様の、倒錯した日本となった。会社に取り込まれた圧倒的多数の人たちは、それぞれの会社の言葉で会社のなかに生きた。会社ごとに言葉があり、それはその会社の外には通用しないのだが、そのような言葉が自分たちの日本語なのだと、なんの疑問も持たずに信じた人たちの日本が、四十年、五十年と積み重なった。

 会社ごとに異なる会社言葉が日本語となった。身内でしか通じない日本語、仲間うちだけで通用する日本語が、そうではない日本語とほぼ完全に入れ替わった時期が、バブルの十年間だったと僕は思う。異質な多くの他者に対してどこまでも通じる力を持った言葉というものを失ったかわりに、会社言葉が体現する価値観、つまり自分たちの社の都合の最優先という、完全に会社仕様の価値観のなかを、日本人は生きることになった。

 こうなって久しく、しかもそのことに気づいていない大衆すべてを刺しつらぬいて所定の効果を上げる日本語は、歯切れの良い言葉、ずけずけとものを言う言葉、本質を意図的にはずしたところで笑いを取りながら、本質的なところでは一刀両断にする言葉、といった種類の日本語だ。歯切れの良い言葉とは、わかりやすくて簡潔に短い言葉を、微妙さをいっさい切り捨て、なんらためらうことなく、臆面もなく音声にして解き放つことが可能な言葉だ。それを受けとめるほうの人たちは、その言葉によって言いあらわされていることが、すぐにでも実現するか、あるいは、すでになかばあたりまでは実現しつつある、と錯覚しがちだ。だからこういう言葉は非常に効果的だ。

 ずけずけとものを言う言葉が、なぜ多くの人たちに歓迎されるのか。ずけずけとものを言えない人たち、巧みにずけずけと言えない人たち、言ったところで誰も聞いてはくれず、発表の場などさらさら持っていない人たちの、閉ざされた不満足感を、溜飲が下がるというかたちで一時的に解消してくれるからだ。それに、このような言葉には、非常にしばしば、漫談的な笑いがともなう。

 笑わせて受けを取りつつ、本質的には一刀両断する言葉とは、片方を取ってもういっぽうを打ち捨てるという、容赦ない二分法の言葉であり、極端な差別をシステムの基本としようとするものだ。切り捨てると効率が良くなると思っているのだろう。なんらかのかたちではみ出している人たちが、切り捨てられる。外国人、老人や子供、病人などの弱者、犯罪者、能力がないとされている人、失業者、底辺の労働者、社会保障の対象者などだ。

 日本語がいま陥っているこうした状況に対して、明確に意識化することは出来ないまでも、漠然とした不安を抱いている人は、かなりの数にのぼる。なんらかのかたちで日本語を主題にした本が、彼らによって数多く読まれている。そのような本は不安を和らげてくれるからだ。日本語はいい言葉なのだ、立派な言葉だ、そしてこの言葉なら自分は知っている、そしてそれも、それからこの言葉もと、ページを繰るごとに安心は少しずつ高まる。そうしているあいだにも、日本語は刻一刻と失われつつあるのだが。

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2016年11月21日 05:30
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