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二本の映画と一杯のコーヒー

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1

 ある秋の日の午後おそく。重い灰色に曇った日だった。タ暮れが近づきつつあり、重い灰色の中には、妙に季節感のない暮色が、いくらかは、かさなっていたはずだ。

 ぼくは坂を降りてきた。その盛り場は、何本もの坂の途中や、坂から横にのびている細い道を中心に構成されている。坂の底には、広場とターミナル駅がある。

 降りつつあった坂のなかほどで、道をいっぱいに埋めている人ごみに突き当たった。人ごみは、ぼくに背をむけている。つまり、坂の底へむかって、ぞろぞろと、坂を降りつつあった。

 人ごみは、映画館から、吐き出されてくるのだ。吐き出される、あるいは、掃きだされる。どちらかといえば、後者のほうが、正しいようだ。

 大入り満員の封切り館は、その日の何度目かの映写をおえ、観客を掃きだしていた。キップ売場前のドアひとつでは間に合わないため、ふだんは使用されていないいくつかのガラス戸が開け放たれ、係員はメガホンを持ち、正しい掃きだされかたについて、客たちに指示をしていた。

 アメリカの怪奇映画の封切り公演だった。若い人たちが圧倒的に多いその観客は、ぞろぞろと外へ出てきて、坂道を自動的に低いほうへくだっていく。

 その人ごみにまじったぼくは、映画館のいくつものドアから出てくる人たちの顔、特に目を、なぜだか、見てしまった。

 非常に鈍い目の集団が、そのときのぼくには、不思議だったからにちがいない。その目は、一様に、途方にくれていた。つまり、どういう感じかというと、その怪奇映画の封切り公演にやってきて、スクリーンに映し出されたものをながめることによっていちおうの退屈しのぎはしたけれど、さて、これからどうしようという感じの、きたえられた部分のすくない、鈍感な視線だったということだ。

 人ごみは、おおむね、黙ったままだ。係員の誘導の声が、人ごみの誰もが着ていた秋の軽いコートの肩さきを渡っていった。人ごみの行手には、この盛り場で一番おおきな、スクランブル交差点が待ちうけていた。

 人ごみのひとりひとり、誰もが、面白い一篇の映画を観に来たのだ。宣伝された情報を頼りに、「なにか面白いことはないだろうか」という思いを、「あの怪奇映画を観にいこう」という決意にかえ、その決意をまっとうするための行動を起こしたのだ。

 その結果が、上映終了後の、あの鈍い視線だとしたら、その怪奇映画は、つまらなかったのだろうか。

 そんなことを考えながら、ぼくは、映画館から掃きだされてきた人ごみといっしょに、スクランブル交差点の信号待ちをした。信号はやがてグリーンになり、人々は歩きはじめ、さまざまな方向へ、散っていった。

 掃きだされる、という言いかたをしつつ、人ごみとはまた、じつにひどい言葉が日本語にはあるものだと、いまつくづく感心している。人ごみ。人と、ごみとが、結びついてしまう。

 封切り館でこれだけの大入りなら、あのアメリカの怪奇映画は、相当な興行成績をあげるだろう。観客動員数や収益が、やがて公表されるだろう。

 動員された観客は、鈍い目をして映画館から出たとたんに、人ごみとなる。なぜか。つまり、「なにか面白いことはないだろうか」と、いっときの退屈しのぎに身をまかせていると、いつまでたっても、いっときの退屈しのぎをこえるものは手に入らなくなるから、視線はいつまでも鈍いのではないのか。

 退屈しのぎ的な娯楽や話題に乗っけられてしまうのは、積極的な行為であるとは言いがたい。それに、いっとき身をひたせるだけであとはうたかたのように消えてしまうような「面白いこと」は、ほんとうに面白いことではない。

 あの盛り場の坂道でぼくがいきあった人ごみは、ひとりひとりが、奇妙に孤立して感じられた。一篇の映画が、「なにか面白いこと」として、ひとりひとりに作用しはしたけれど、個を乗りこえる機能のようなものは、ついにというか当然にというか、持ちえなかった。そんな感じが、とても強かった。

 ぼくはまだその怪奇映画を観ていない。というよりも、観ない、という行動をおこしつづけているのだ。どう考えたって、すくなくともぼくの頭では、その映画が面白いとは思えないからだ。しかし、観れば、面白いのかもしれない。意外な部分で、とんでもない触発をうけるかもしれない。そのような可能性を残しつつ、なおかつ、観ない。

2

 では映画をまったく観ないのかというと、そんなことはない。

『キネマ旬報』をめくっていたら、「シネ・ガイド」のページで『山河遥かなり』という映画タイトルが目についた。観たいと思いつつ観るチャンスを持てずにいた映画だ。ガイドによれば、新宿アート・ビレッジで、『マルタの鷹』と二本立てで上映されるという。12月11日。料金は800円。午後3時からのを、ぼくは観ることにした。そして、観た。

『マルタの鷹』は、ダシエル・ハメットの傑作小説だと言われている。12歳ぐらいのころ、ぼくはこれを原文で読みかけ、途中で投げ出した。ストーリーの進展や人物と事件のからみ合いがめちゃくちゃで私立探偵サム・スペードの「位置」のようなものが、うまくつかめなかったからだ。このとき以来、『マルタの鷹』は、ずっと読まないままになっていた。

 こういう体験があるから、『マルタの鷹』に対しては、かなり期待が持てた。新宿アート・ビレッジのありかを知らなかったぼくにとって、新宿駅から歌舞伎町へきて、ビレッジの場所をさがすという楽しい行為は、早くも『マルタの鷹』と『山河遥かなり』の一部分となっていた。

 ハンフリー・ボガートも、モンゴメリー・クリフトも、もう久しくスクリーンで観ていない。このふたりが観られるだけでもうれしいのだから、二本ともとても面白かったとなると、そのうれしさはぼく個人の楽しみをすこしは越えた広がりを持つのではないかと思ってしまう。だからこうして、そのことについて書きつけている。

 私立探偵サム・スペードは、タフで非情なハードボイルド探偵だと言われている。タフで非情でハードボイルドという、あまり当たっていそうもない形容句について、まずぼくなりに言葉をつくしてみよう。

 この『マルタの鷹』でハンフリー・ボガートによって描かれたサム・スペードは、ひと言で言うと、俺はケチなもうけ仕事や企みのダシには使われないぞ、という価値観の体現であるのだ。この価値観は、サム・スペードの私立探偵としての日々を支える論理であることは、当然だ。

 アーチャーという相棒といっしょにかまえている探偵事務所に、ある日、依頼人がくる。美女だ。この美女はサム・スペードに仕事を依頼し、彼は、ひきうける。美女がお芝居たっぷりにならべたてるおもてむきの事情を真にうけるほど、サム・スペードはナイーヴではない。この女は、自分の企みを完遂させるために俺をダシに使おうとしているな、と正しく直感する。

 だから、依頼をうけてからのサム・スペードの動きは、その直感の確認行為となる。ただし、美女の裏にどのような企みが進行しているのか彼には知るすべもないから、身の危険は承知のうえだ。相棒のアーチャーも、危険は承知だった。そして、この美女が持ちこんだ仕事にからんだとたんに、相棒は何者かに射殺される。

 ここから、最終巻まで、かなり入り組んだ事情を持つ事件が、登場人物のセリフだけで、語られていく。サム・スペードには事件のぜんたいが最後にならないと見えないので、時に応じて、あるいは相手に応じて、態度をさまざまに変化させる。ある人にとってはカネでどうにでも動く男であり、ある人にとっては、警察の敵であったりする。したがって、字幕だけを頼っていると、もろもろのいきさつがよくわからないのではないのかと、ぼくは観ていて思った。

 その昔、中世のころ、マルタ島の騎士団が、供物として純金の鷹の像をつくった。純金の体に数多くの宝石が埋めこまれた、非常に高価なものだ。この像が、供物として使われようとしたとき、海賊に横取りされる。以後、像は転々として現代まで生きのび、全身に黒いエナメルを厚く塗られた姿で、それをさがしている人たちから、所在をつきとめられる。

 多額の現金にかえうる高価な鷹の像をめぐって、すくなくとも三組の人たちが、争奪戦を演じる。そして、そのうちの二組が、サム・スペードをダシに使おうと企む。

 彼がダシに使われつつ、独自の反応をしていく行為が、そのまま、事件の進展でもある。進展の大部分が室内で、つまりこの場合はセリフで、おこなわれていく。サム・スペードは、けっこう動きまわるのだが、たとえば自分で自動車を運転するようなことは一度もない。セリフによる説明で話を進めていったことの当然の結果のように、ぼくには感じられた。

 最後に、鷹の像は、サム・スペードの手に渡る。わけ前にあずかるという約束で動いていたサム・スペードは、像がじつはにせ物だと判明すると、わけ前としてあらかじめもらっておいた現金の中から私立探偵としての実費をさしひいた残りを突きかえし、これまでの自分の行動を支えていた倫理がなにであったかを、明らかにする。

 それは、相棒のアーチャーが殺された、というどうにも動かすことのできない重い事実だ。アーチャーを殺したものは、鷹の像をめぐって展開された争奪戦という、いくつかの重層した企みだった。うまくやれば自分だけのものになるかもしれない多額の現金が推進力となっていたその企みは、像がじつはにせ物であり、企みの渦中にあった人たちは最初からいっぱい食わされていたのだと判明したとたん、サム・スペードを推進させていた倫理へと、ひっくりかえる。エンドマークに近いこのあたりは、いい緊迫感を持っていた。

 多額とはいえ、ケチなカネをめぐるケチな企みの遂行のために、相棒のアーチャーという人間がひとり、理不尽に殺された。「てめえの手で下手人をあげなきゃ、この探偵稼業じゃ食っていけないのさ」とサム・スペードは言う。彼独得の言いかたであり、砕いて言いかえるなら、多額のカネを手中にしたいという夢の実現のためになにごとかが企まれるとき、副産物のようにおこってくる許しがたい理不尽なこととの対決のために自分はここに在るのだ、ということだろう。自己を支えてくれるこの倫理の具現として、サム・スペードは、完璧に機能する。

 はじめに彼の事務所をたずねた美女の依頼人は、彼女自身の企みの中においてすでに裏切り者であり、アーチャーはそのために殺されたのだ。彼女は、サム・スペードが美女としての自分の魅力に惚れてくれ、惚れた弱みで自分の企みのダシにうまく使われてくれるのではないかと、思惑していた。そんな思惑にはいっさい関係なく、サム・スペードは、彼女を警察にひき渡す。

 事件が解決して、サム・スペードの胸に重く苦いものがもし残りつづけるなら、それは、美女をひとり長期刑送りにしたことではなく、この事件に相棒とふたりでかかわったそもそものモティヴェーションが、しがない私立探偵の彼らにしてみれば高額の、依頼人が巧みにちらつかせた紙幣だったという事実だ。

 その紙幣は、最後にサム・スペードがかかえることになったにせ物のマルタの鷹とおなじく、Stuff that dreams are made of. であったことにまちがいはない。依頼人が、ケチな企みの一部として差し出した二枚の紙幣のうちの一枚を、「こんなにはいりませんよ」とサム・スペードをして依頼人にかえさせたところに、人としてのハメットの、ゆらぐことのない存在が見えるような気がする。

3

『山河遥かなり』は、観逃していた映画だった。『地上(ここ)より永遠(とわ)に』や『赤い河』を観たあとで、この作品や、『大空輸』などの存在を知った。若いモンゴメリー・クリフトが演じる凝縮された熱意のようなものが好きで、ぜひ観たいと思っていた。

 若いGIがヨーロッパで戦争孤児の母親をさがし出す物語だということは、観る前から知っていた。母子は最後には対面してハッピー・エンドになるにちがいないから、観かたとしては、とりあえず、モンゴメリー・クリフトを観てさえすればいい。共演のウエンデル・コリーもいい俳優なので、なんだかとてもくつろいだような気分で、観はじまった。

 モンゴメリー・クリフトは、好演していた。比較的単純な性格をあたえられた役どころなので、このくらいの好演でいいのだろうな、ということに気づいてから、ぼくの興味は、母子の対面がどのようにおこなわれるかへ、移っていった。

『山河遥かなり』は、とてもよく出来た映画だ。ストーリーはいいし、押えるべきところきちんと押えつつ、軽やかに、すいすいと、進展していく。戦争によって引き裂かれた母子が、ある日、劇的な対面をするという物語が、明るさを持って、進められていく。

 モンゴメリー・クリフトが画面に登場するまでに、ひとりの少年がいかにして孤児になったかという事情が、説明される。そして、クリフトが登場してからは、彼の演じるGIに助けられたその少年が母をさがす物語に入っていく。いっぽうでは、生きのびていた母親も、わが子をさがしはじめる。

「信じがたい偶然によって、じつに数多くの孤児が母親と対面しています」というセリフで、この作品というひとつの虚構に対して、その内部から、ダメ押しがなされる。そして、虚構はそのダメ押しどおりになっていくのだが、そのプロセスに関して、じつにみごとな点がいくつかあり、それがぼくを感激させた。

 孤児の少年は、のっけから母親を求めたりはしない設定になっている。ナチの収容所体験の恐怖が原因でいっさいの記憶を失い、自分をとりまく他者との反応能力も極度に低下しているその少年は、GIに次第になついていく過程でごく自然なかたちで母という存在を思い出し、自分にも母がほしい、と熱望するようになる。

 母親にも、工夫がこらされている。息子をさがす途中で、あなたの息子は収容所から逃げて溺死しました、という誤った事実を知らされ、ほんとに息子とつながってはいるけれど彼の死とは実際にはつながっていない証拠を見せられる。

 ショックで母親は倒れ、病気になる。やがて回復し、孤児収容所で働きはじめる。健康をとりもどし、孤児たちにもなつかれる。一定の人間的な状態までたちかえった孤児たちは、ほかの施設に送られ、入れかわりに、ひどい状態の孤児たちが、汽車で来る。

 母親は、その孤児収容所での仕事を辞して、わが子をさがすというあてのない旅に再び出ようとして、汽車に乗りこむ。その汽車で着いたばかりの、ひどい状態の孤児たちが、プラットホームを歩いていく。母親は発車まぎわの車窓からその子たちを見る。もしこれが日本の映画なら、母親は汽車から飛びおり、わが子はどこじゃ、この孤児たちの中にわが子はおらぬかとばかりに、和服の裾も小走りに、半狂乱になるはずだ。

 だが、『山河遥かなり』では、そんなことはない。彼女は旅に出る決意をひるがえし、汽車をおりる。あらたにやってきた孤児たちの世話をつづけるためにだ。背すじをのばし、さわやかに美しく微笑しつつ、数多くの孤児たちを羽の下に抱きこむ母親鳥のように、彼女は、孤児収容所に帰ってくる。わが子をさがし求めるという、実の母親としての当然の執着を、彼女は、子供たちという総体に対する限りない愛情と奉仕に、昇華させたのだ。母親としての愛は、彼女の内部で個的に空転することなく、集合的な広がりを持って機能しはじめた。このすぐあと偶然の糸でたぐり寄せられた息子と対面する。日本映画なら、母と子の対面という個的世界の完結による一種の修羅場になるにちがいないのだが、うらやましさに地団駄を踏みたくなるほどにさりげなく、対面のシークエンスは、大げさなセリフのかけらもなしに、エンドマークにかぶるのだった。このさりげなさ、明るさ、軽さこそ、ひとりの母親の愛がわが子をこえて子供たち総体へと昇華したことの確実な証拠だと、ぼくは思った。

底本:『アップル・サイダーと彼女』角川文庫 1979年

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『マルタの鷹/The Maltese Falcon』1941年(日本1951年公開)、セントラル配給、ジョン・ヒューストン監督/脚本、ハンフリー・ボガード、メアリー・アスター他

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『山河遥かなり/The Search』1948年(1954年日本公開)、MGM配給、フレッド・ジンネマン監督、リヒアルト・シュヴァイツァ脚本、モンゴメリー・クリフト、アリー・マクマホン他

 


1979年 『アップル・サイダーと彼女』 アメリカ コーヒー 映画 映画|『マルタの鷹』 映画|『山河遥かなり』 観る
2015年11月28日 05:30
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