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江戸時代に英語の人となる

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 戦後の日本は世界各国から原材料を買い、国内で製品を作り、それを世界に売った。しかし世界のどことも、真の関係は出来ていないままだ。この不思議さを、どのように解釈すればいいのか。自分の都合だけを追った結果だ、という解釈はもっとも正しいのではないか。戦後の日本にとって世界という他者は、自分の都合の達成のために存在した。

 国を挙げての自分の都合の追求を、戦後の日本はひたすらおこなってきた。日本に林立した会社組織群が、それを全面的に引き受けた。自分の所属する会社組織が社会のすべてであり、会社の外にはなにもなく、したがって外の世界は視野に入ってこないというありかたは、自分たちの都合さえ成立すればそれでいいという現実を、強力に作り上げた。会社の外にある世界は、会社組織とそのなかにいる人たちにとっては、潜在的には邪魔者だった。邪魔者との真の関係を作ろうとする人はいない。

 日本国内での、日本人だけの世界という閉鎖された枠の強固さは、戦後の五十数年をかけていま頂点に達している。英語の学習にとって最大の障害は、日本を支配しているこの強固な閉鎖性かもしれない。日常の現実という範囲内では、あらゆることが日本国内で、そして日本語で、充分すぎるほどに間に合う。外の世界、そしてそこにある日本語以外の言葉は、基本的には自分とは無関係な、奇異なものでしかない。

 閉鎖性を機能させている単位は会社組織だ。営業品目が世界のすべてであるという会社組織のなかで、サラリーマン語に身も心もひたりきった人たちが、たとえば英語をとおして、公共性に満ちた普遍的な場へと、自らの内部になんの障害も体験することなく出ていけるものかどうか。自国語で固まった頭を、とりあえずはつたない英語を経由して、外というぜんたいに向けていきなり開いていくことが、果たして可能なのか。

 英語の不完全な勉強よりも先に、まず自分の言葉がどの程度のものであるのか、彼らは冷静に観察しなければならない。観察した結果、不足している部分があるなら、そこを中心にして、自分たちの言葉を徹底的に学びなおす必要がある。生活内容の乏しさや貧しさ、底の浅さなど、すべてはそのまま英語に出る。しかもつたない英語だから、限度いっぱいに誇張されて、それは出てしまう。自分は英語が駄目と彼らが言うのは、じつはこういうことなのではないか。

 ひとつの強固な枠の内部に閉じられた不自由なものの考えかたは、英語という言葉の構造が要求する思考の展開経路と、なじみにくいのではないか。その逆に、枠の内部に固定されていない思考は、英語の構造のなかにすんなりと入ることが出来るし、英語の性能を正面から引き受けることがたやすいのではないか。人を機能させる言葉である英語のなかには、機能的な思考ほど入りやすい。

 いったんそこに入ると、前進性という機能によって、さらに前へと運ばれていく。人を機能させてやまない言葉は開かれた性質の言葉であるし、人を機能の最前線まで運んで解放する言葉でもある。英語の構造が要求する思考の出来る人は、英語の人になりやすい。そして英語によってさらに開かれていく。そのことの実例として、日本でおそらく最初の例は、中浜万次郎と彼の英語ではないか、と僕は思う。

 中浜万次郎が英語で書いた手紙を、かつて僕は読んだことがある。中浜万次郎とは江戸末期のかつお漁船の船乗りだ。乗り組んでいた船が難破して鳥島に漂着したのち、アメリカの捕鯨船に救助された彼は、アメリカに渡った。捕鯨船のアメリカ人たちは、中浜にとって初めて接するアメリカ人だった。そのアメリカ人たちが喋る英語は、中浜が生まれて初めて聞く、英語という外国語だった。アメリカ人たちにとっても、中浜は初めて聞く日本語を喋る、初めて見る日本人だった。

 おなじ船乗りどうしであるという認識は、双方に健全なかたちで存在していたようだ。ある程度までのコミュニケーションなら、理解し合うことの出来る言葉なしでも、最初からきちんと成立したという。ある程度までの、というような言いかたは、正しくないかもしれない。もっとも核心的な部分では、と言いなおすべきだろう。

 アメリカへ渡った中浜は、多くの人たちとの交流を重ね、英語の教育を受けた。一度は日本語を忘れてしまうほどに、彼は英語を自分の言葉にした。彼はやがて日本へ帰った。そして、日本が外国に対して送った、歴史上初めての使節の一員として、威臨丸という船で二度めのアメリカを体験した。そのとき中浜は三十三歳だった。帰国の途中、彼はハワイに立ち寄った。僕が読んだのは、そこで彼が英語で書いた手紙だ。

 ひとりの人が英語を自分のものにするということに関して、きわめて重要なことをその手紙は教えてくれる。中浜が英語で書いた手紙のなかに、限度いっぱいに自由に、のびやかに、中浜という人がいる。英語という言葉がその基本的な機能として持つ開放力や許容力、高い自由度などのなかに、中浜は自分を解き放っている。

 本当に英語を勉強したければ、相当なところまで勉強を重ねたのちに、中浜の手紙を読むといい。英語の勉強がまだ初歩の段階にすら到達していないままに彼の手紙を読んでも、なぜそれがそんなにいいのか、理解出来ないままとなるはずだから。

 中浜の英語には間違いがある。しかしそれは、彼がアメリカで親しく接した人たちがしていた間違いを、そのまま複写するかのように中浜も引き継いだ、という種類の間違いだ。それになにしろ昔のことだから、いまはこうは言わないけれど昔はこんなふうにも言ったようだという、現在とは異なる部分もある。

 このようなことは、しかし、いっさいなんら問題とはならない。重要なのは、その人の思考のありかたと、英語との相性の良さだ。中浜は相性の良い人であったようだ。だから英語という言葉の機能によってさらに開かれ、自由度を高めた。だからこそ、ほぼ完璧に、英語を自分の言葉にすることが出来た。中浜よりも九年あとに生まれ、おなじくアメリカで英語を学んだ浜田彦蔵という人物の英語も、中浜に負けることなく素晴らしい。

 日本人が英語をまるで自国語のように身につけることに関して、江戸時代にはどのような問題があったのか。難破や漂流をきっかけにしたとはいえ、アメリカに渡って英語を覚えて帰国したなら、英語の知識そのものに対して自分は厳しく処罰されるのではないかと、ただの船乗りにすら思わせたのが、江戸という世界だった。

 ある程度までのトレーニングを積んだ人なら、誰もが参加出来るように開かれている、許容度や自由度の高さとでも言うべき性質を、英語は基本的な機能のひとつとして持っている。世界とのインタフェイスとして、つまり自国語の次に役立つ第二の言語として、英語を使う人が多い事実の第一の理由は、英語という言葉が持つ機能そのものにある。イギリスがかつて世界帝国であり、いまはアメリカが事実上の世界帝国であるから、世界の共通語はしかたなく英語なのだというとらえかたは、的を大きくはずしている。

 その英語を日本人は不得意とし、下手であり苦手であるという。戦後の日本人は一度たりとも英語を正しく勉強した経験を持たないのではないか。長い年月をかけて充分に勉強したつもりでいても、じつは勉強の量はまったく不足している。学校であれだけ勉強したのにこんなに出来ないのだから嫌になる、というような見当違いの評価は、一刻も早く捨て去らなくてはいけない。

 あらためて勉強しようとすると、その方法がまた間違っている。当然の結果としてたいして進歩しないから、嫌になるという気持ちが、すでに厚く存在するおなじ気持ちの上に重なる。勉強のしかたとは別に、英語に対する適性のようなものがもし測定出来るなら、いまの日本人は適性がひどく低いのではないか。誰でも参加することが出来、したがって新しいものをいくらでも取り込むことの可能な、許容度や自由度の高さという英語の基本機能そのものに、戦後の日本人の得意とする思考経路は、なじみにくいのではないか。

底本:『坊やはこうして作家になる』水魚書房 2000年

中浜万次郎
中浜万次郎

今日のリンク:ジョン万次郎の英会話(ジェイ・リサーチ出版、2010年)

1859年に万次郎によって編まれた日本初の英会話教本『英米対話捷径』復刻版。


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2016年6月4日 05:30
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