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ジン・ボ・チョへの道

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 都営新宿線の地下鉄で新宿から神保町まで、二百十円でいくことが出来る。三百八十円というようなときがくれば、そのとき多くの人々は、かつて二百十円だったことを忘れている。なにかの折りに昔の料金を知って、その安さに人々は驚くのだろう。逆に百二十円のときがくるなら、かつては倍近くもしたことを知り、そんなときもあったのかと、おなじく人々は驚くのだ。

 いま東京で地下鉄が次々に開通している。すでにある路線がひとつまたひとつと運行停止となり、駅への入口はシャッターが降りたまま、という時代がくる可能性について想像しながら、地下鉄で新宿から神保町へと向かう。地下鉄のなかでの時間の使いかたに、悲観的な想像という行為は適している。

 銀座線という地下鉄には、その全線にわたって、いまでも人間の感触が多少とも残っている。開通した時代がもっとも昔だからだ。銀座線以外の地下鉄には、人間の感触はまったくない。座席にすわり、あるいは吊り革につかまり、人はそれぞれに内向して過ごすほかない。内向とは、自分の頭のなかに自分自身が浮かんでいる状態だ。こんなふうに人を内向させる施設や装置が、いまの東京には無尽蔵と言っていいほどに豊富にある。

 新宿から神保町まで地下鉄ですぐに到着する。神保町の交差点が持つ四つの角のそれぞれの近くに、地上への出口、地上からの入口がある。交差点を中心にして、出入口は正確には六か所ある。まずどこへ向かおうとしているかによって、使う出入口が明確に異なる人もいるはずだ。どこから出ても差はほとんどないけれど、さぼうるの脇にある出口を出てさぼうるの前をとおり、右へ曲がってすずらん通りに出るのは、内向の地下鉄トンネルから神保町の核心へと、もっとも早くに出ていくことの出来るルートだ。

 フリーランスの雑文書きだった二十代の僕は、毎日のように神保町へ来ていた。下北沢から新宿へ出る。中央線で御茶ノ水までいく。駅の周辺でまずいくつか用事をすませ、喫茶店で人に会ったりしていた。それが終わると、駿河台下の交差点に向けて、坂道を降りていった。

 西側の道と東側の道のどちらを歩くかによって、微妙な差があったことを僕はいまも記憶している。ただし、それがどのような差だったかについては、忘れている。この坂道はいまはたいそう歩きにくい。歩きにくい道は一九七〇年代から急激に東京に増えた。これも人を内向させる。歩きやすさは肉体の快楽であり、精神にとっては解放だ。歩きにくさによって、そのどちらもが、人の内部に封じ込められたままとなる。

 坂を降りきって交差点と向き合って立つのは、たいへん気持ちのいいことだった。交差点からどちらの方向へ向かおうとも、それは自分だけの自由だった。ここの交差点は、ごく軽度にではあったけれど、人を解放した。駿河台下の交差点と神保町の交差点という、ふたつの交差点が神保町をめぐって果してきた役割は大きい。もうひとつ、専大前の交差点を加えて、三つにしてもいい。

 新宿から総武緩行線に乗り、飯田橋あるいは水道橋で降りて歩く、というルートがあった。どちらもなかなか悪くない。市ケ谷から歩く、というアイディアもあった。時と場合によっては、これも良かった。飯田橋駅からまっすぐに靖国通りへ出て、左折して神保町の交差点へ、というもっとも単純なルートに加えて、駅から歩き始めてすぐに脇道に入り、脇道から脇道へと右左折を繰り返したあと、神保町の交差点近くで白山通りのどこかに出る、というルートはいまでも有効だ。

 水道橋駅からの歩きかたにも、この法則はあてはまる。西側の道を歩くと商店が連続している。この様子はいまの東京ではかなり珍しい部類に入る。夕方から夜のまだ早い時間に歩くと、たいへん賑わっている街、という印象を受ける。つらなる店にどのような連続性があるのか、あるいはないのか。いまの店のつながりのなかに、以前からの店が以前のままに何軒かある。この対比を観察して楽しむのも、いまのうちではないか。

 JRを御茶ノ水駅で降りずに神田駅までいき、そこから神保町まで歩くルートも面白い。もっとも由緒正しい道筋は靖国通りであるようだ。万世橋、須田町、小川町、淡路町、とたどるこの道は、昔の東京のこの地区に生まれた都会らしさにとっての、背骨とも言うべきルートなのだから。歴史を多少とも知っていれば、このことをいまでもごく淡く、感じ取ることは可能だろう。神田駅から錦町へ向かって歩き、交差点で右折して駿河台下の交差点へ出る、という歩きかたもある。直線で歩かず脇道に入り、右折と左折を繰り返しつつ歩いていくと、ビジネス・デーの東京の、ビジネス・ストリートの基本を体験することが出来る。

 大学生だった頃の僕は、早稲田から都電で神保町へ出ていた。大学を中心としたとらえかたによれば、大学の裏手にあたる場所に、早稲田という停留所があった。いまは荒川線の停留所が、おそらくほぼおなじ場所にある。高田馬場駅前から面影橋、早稲田を経由し、飯田橋、神保町をへて茅場町まで、15系統という都電が走っていた。早稲田からは39系統も出ていた。本郷三丁目、上野広小路をへて厕橋までという路線だ。そして高田馬場駅前からはもうひとつ、32系統が出ていた。面影橋で分かれて王子駅前までの路線だ。

 早稲田の停留所のうち、飯田橋のほうへ向かう側の停留所には、ごく短いものではあったけれど商店街が、直接にホームと接していたという記憶がある。茶碗を売る店や蕎麦屋があった。神保町へいくとき、僕はこの停留所から15系統に乗ったのだ。関口町のビリヤードに入りびたりだったから、関口町の停留所から乗ることが多かったかもしれない。

 15系統が高田馬場から出ていたことは、当時から僕は知っていた。停留所の名称は高田馬場駅前だった。あの当時のあの駅前のいったいどこに、都電の停留所があったのだろうかと、いまの僕は不思議に思う。まったく記憶していない。完全に記憶から消えている、思い出せない、そもそも覚えていない、というようなことがすべて重なった結果だろう。たとえ記憶していたとしても、その記憶の内容はきわめて不正確で、しかも断片的であったりするに違いない。人の記憶ほどあてにならないものはほかにない。『東京都電の時代』(吉川文夫著、一九九七年、大正出版)のなかに、昭和四十三年三月に撮影された、高田馬場駅前の都電停留所の写真がある。15系統の茅場町行きが停留所に入って来たところだ。人々はドアが開くのを待っている。雑文書きの僕が毎日のように神保町で原稿を書いていた頃だ。

 この写真をひと目見て、あ、あそこだ、とすぐにわかるというようなことは、僕の場合まったくない。学生の頃にはいつも見ていた場所のはずだが、見てはいても記憶には残っていないのだ。写真だけ見ていると、これがどこなのかすらわからない。停留所の名を見てようやく、この光景はあそこなのかと驚く。現在のJR高田馬場駅は、この写真の時代と基本的にはまったく変化していない。その駅を出て歩道を右へいき、ガード下を出たすぐのところに、現在は幅が広がっている道路に横断歩道があるなら、その横断歩道のすぐ外側に、茅場町行きの都電の停留所がかつてあった。線路は横断歩道で行き止まりだった。

 到着した車輌も出発していく車輌も、ともにこのひとつの停留所を使っていた。停留所にまだ車輌がいるときには、それが出発して出ていくまで、到着した車輌は手前で停止して待っていなければならなかった。二系統が入ってくるから、車輌が三輌くらいたまることは頻繁にあった。増えていきつつあった自動車が、それに妨げられて渋滞した。その様子を見て、都電が自動車の邪魔になっている、と思った人は多いだろう。

 都電の本のなかの写真を僕は観察する。停留所にいる15系統の車輌の、系統表示板の数字の下に、「小説新潮」という文字が見える。一冊の雑誌がこんなところに広告されていたのだ。高田馬場駅前の停留所の光景は、確かに僕も体験したはずの光景だが、東京のどことも見当すらつかないほどに、僕には記憶がない。大学まで都電に乗った記憶がない。バスにはたまに乗った。ガードをくぐってすぐ左の空き地で、バスは折り返していたと記憶しているけれど、まったく違うかもしれない。

 ほとんどいつも、僕は駅から学校まで歩いた。高田馬場駅から早稲田大学までの道は、当時はたいへん良かった。高田馬場という地元が、地元という地域として緊密につながり、生活の場として機能していた。いまはそのような機能も雰囲気もすべて消えているから、この道は歩きたくない道へと変わっている。

『東京都電の時代』のなかにある、昭和四十三年の高田馬場駅前の写真の右ページには、おなじ年の早稲田の停留所の写真がある。茅場町へと向かう側の停留所は、何軒かの商店のつらなりでもあったという僕の記憶は、正しかったようだ。写真がとらえているのはそのとおりの光景だ。茶碗を売る店は見えないけれど、「おそば」と書いた看板は見える。

『都電が走った街今昔 Ⅱ』(林順信著、一九九八年、JTB出版)には、昭和四十二年に撮影された高田馬場駅前の停留所の写真が掲載されている。停留所からいま少し早稲田のほうへ離れた位置から撮ったものだ。15系統が停留所を出ていこうとしている。『都電の消えた街 山手編』(諸河久・林順信著、一九八三年、大正出版)には、昭和三十九年の高田馬場駅前の写真がある。さきほどの写真を撮った地点から、道路の向かい側へ移った地点で撮影されたものだ。この写真のなかでも、15系統が停留所を出ていくところだ。行く先の表示は神保町とある。停留所には人が残っている。32系統が入ってくるのを待っている人たちだ。その32系統の、停止して待機している車輌の先端が、画面の左端に見える。都電を被写体とした写真だから、都電の様子をとらえることに関しては、細かな注意がいきとどいている。

 どの写真も、僕が学生だった頃、あるいはフリーランスの雑文業だった頃と、同時代だ。記憶のなかにはまったくない光景だから、なるほどこうだったのか、確かにこうだったのだろう、こうだったに違いない、などと僕は思うだけだが、こうであったことは確実なのだから、写真が持つ記録としての絶対性に僕は感銘を受ける。

 おなじ本のなかに、32系統と15系統が前後しつつ、早稲田から面影橋へ向かう様子をとらえた写真もある。早稲田の停留所は画面のいちばん奥のあたりだ。昭和四十二年だという。そうか、こういう光景だったのか、と思うほかない。僕が学生だった頃とほとんどおなじ光景のはずだ。建物が低い。自動車が少ない。道路は広々と見える。そのことと呼応して、空も存分に広い。この光景のなかにいた人たちの視線は、いろんな方向へ自由にのびたはずだ。気持ちは内向せずに済んだだろう。ごく近いところにあるさまざまなものによって視線が強制的にさえぎられると、人はいつのまにか内向してしまう。

 石切橋の写真が二点ある。ひとつは首都高速五号線の工事が始まったばかりの頃をとらえている。もうひとつは、高速の橋脚だけが点々と立っている光景をとらえている。ともに昭和四十三年の光景だ。僕は何度も見た光景であるはずだが、初めて見る光景としての新鮮さを強く感じる。平成十年におなじ地点から撮った写真が対比として添えてある。高速道路が重く巨大に立ちふさがり、人の視線をさえぎるだけではなく、光景ぜんたいに陰気な蓋をしている。たいそう醜い、暗い光景だ。

 昭和四十三年の東五軒町の写真もある。ここでも光景は広々としている。対比してある平成十年の光景は、変わり果てた姿としか言いようがない。昭和四十三年、大曲の写真を、『都電の消えた街 山手編』のなかに僕は見る。茅場町行きの15系統が飯田橋の方向に向かっている。停まったり走ったりしている自動車のかたちを頼りに、僕が二十代の後半だった頃の、東京のどこかの光景なのだということだけが、やっとわかる。

 早稲田から石切橋、東五軒町、大曲と、過去の写真を僕は見てきた。都電を主役にして飯田橋の交差点をとらえた写真を三点、さらに見つけた。『東京都電の時代』には、昭和三十五年に撮影した写真が掲載してある。目白通りを来た15系統が、飯田橋の交差点を越えた瞬間の光景だ。都電だけではなく、写っているものすべてに関して、この写真は貴重な記録となっている。

 おなじ時代のこの交差点を、何度となく僕は都電で越えた。写真をじっと見ていると、ほんの少しではあるけれど、呼び覚まされる記憶はある、という状態になる。この五叉路の交差点は特徴的な場所だから、そのせいで少しだけ記憶しているからかもしれない。町なみはいまの僕にとっては夢のようだ。写真機を持って、このような町なみを、いま歩きたい。

 この写真の撮影地点から少しだけうしろに下がった場所から撮った、それゆえに画面の両脇がもっと広い昭和三十六年の飯田橋交差点の写真が、『消えた街角ー東京』(富岡畦草著、一九九二年、玄同社)のなかにある。この写真も、なんという貴重品であることか。停留所を出た15系統が交差点を越えていきつつある。さきほどの写真から僕が受けとめる印象にこの写真が重なると、確かに自分はこの光景に見覚えがある、という気持ちが増幅される。『都電の消えた街 下町編』には、昭和四十三年の飯田橋交差点の写真がある。国電のガードをくぐってきた15系統が、交差する軌道のなかへいままさに入っていこうとしている瞬間だ。その背後には、交差点をまたぐ歩道橋がすでに出来ているのを、見ることが出来る。

 大学生だった僕が早稲田からしばしば乗った15系統の都電をめぐって、いまでもはっきり覚えている唯一の出来事がある。大学二年か三年の初夏のある日、ケースに入れないままのギターを一本持って、僕は15系統に乗った。淡路町のカワセという楽器店で買ったギターだ。修理してもらうために店へ持っていこうとしていた。修理ではなく修正だったかもしれない。どの部分をどうしたいと思ったのか、そこまでは記憶していない。大学生だった四年間に、一年に一本ずつ、僕はカワセでギターを買った。

 早稲田から都電に乗った僕は、車輌のなかほどで吊り革につかまって立っていた。乗降口の近くにいたおなじ大学の学生とおぼしき青年が、僕に歩み寄って来た。そして、「きみはブラフォーなの、それともキントリなの?」と訊いた。なんのことだかわからなかった僕は、二度、訊き返した。それでも意味がつかめずにいた僕に対して、彼は自分の顔の前で片手を振り、「いいよ、いいよ」とだけ言うと、もといた場所へ戻っていった。

 いまなら彼の質問の意味はよくわかる。ギターを持っている僕を見た彼は、アメリカのフォーク・ソングを弾きかつ歌うという、当時の流行に参加している人だと思った。ブラフォーとはザ・ブラザーズ・フォア。そしてキントリとはザ・キングストン・トリオのことだ。フォーク・ソングを歌うアメリカ青年のグループとして、このふたつが日本でも人気を二分していた。きみはどちらをひいきにしているのか、どちらをコピーしている人なのか、というようなことを彼は僕に訊こうとしたのだ。

 僕がカワセで最初に買った楽器はウクレレだった。十四歳の夏だ。カワセで買うことになった直接のきっかけは、おなじ十四歳の初夏に、自動車で神保町を初めて通過し、淡路町そして小川町と抜けていき、浅草橋から蔵前を経由して浅草までいったことだ。浅草へ食事をしにいく身近な大人たちが、僕にもついて来るように言った。僕は食事にはいきたくなかったが、知らないところへはいってみたかった。自動車は確かデソートだったと思う。うしろのいちばん左の席にすわった僕は、デソートが走るままに外を見て過ごした。

 渋谷から青山通りをいき、三宅坂から九段へ出て、九段下へと坂を降りた。そのまま直進したデソートは、やがて神保町の交差点を越えた。初夏のきれいに晴れた日、交差点を越えていく自動車の窓から見た、水道橋方向への白山通りの光景は、いまも記憶にある。その交差点を越えてすぐ、靖国通りの北側の歩道の縁に、車道に面して、横長の細い標識が立っているのを僕は見た。その標識には JIN BO CHO と、ローマ字が書いてあった。ジン・ボ・チョだ。

 神保町という日本語が併記してあったかもしれない。僕は覚えていない。僕の視線はその漢字をとらえなかった。僕の記憶のとおり、もしローマ字だけだったとしたら、なぜローマ字だけなのか。行政が立てた正式な標識なのか、それとも町内会のような組織が立てた、なかば町の飾りとしての標識だったのか。車道に面していたからには、自動車で行き交う人たちに見せるものだったのだろう。それにしては標識は細すぎ、ローマ字は小さすぎた。

 デソートを運転していた人に、ジン・ボ・チョとはなにか、と僕は訊いた。ジン・ボ・チョではなく、ジンボーチョーというこのあたりの地名なのだと、その人は教えてくれた。デソートは駿河台下の交差点にさしかかっていた。カワセ楽器を窓から見たのは、そのすぐあとだった。ウインドーのなかに、そして店のなかに、ギターがいくつも見えていた。当時の楽器店は落ちついて気品に満ちた世界であり、子供には近づきがたい雰囲気があった。

 そして夏が来てウクレレを買うことにした僕は、ジン・ボ・チョの近くで見た楽器店を思い出し、ひとりでジン・ボ・チョへいくことにした。渋谷から12系統の都電に乗ればいい、と誰かが教えてくれた。渋谷を出発した12系統は、まだなにもなくて退屈で静かだった青山通りを走った。赤坂見附、三宅坂、そして靖国神社で右折して九段の坂を下った。デソートから見たのとおなじ光景を、僕は都電から見た。

 神保町の交差点を越えるときには、ローマ字の標識をもう一度、見た。次の停留所、つまり駿河台下で降りて、僕は歩いた。楽器店は僕が見たとおりにその日もあり、そこで僕はウクレレを買った。段ボール箱に入れて、その箱に店の人が十文字に紐をかけてくれた。箱の雰囲気、なかにあるウクレレの感触など、いまも僕は覚えている。そして僕にしてはたいへんに珍しいことだが、僕はいまでもこのウクレレを持っている。

(『音楽を聴く2 映画。グレン・ミラー。そして神保町の頃』2001年所収)


1950年代 2001年 『音楽を聴く2ー映画。グレン・ミラー。そして、神保町』 ウクレレ ローマ字 写真 古書 日本 東京 神保町 都電
2016年6月10日 05:30
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