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五つの夏の物語|4

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 湖のほとりは海岸のようになっていた。そこからなだらかに斜面があり、その斜面ぜんたいに芝生が植えてあった。湖のほとりのそのあたり一帯は、ホテルの敷地のなかだ。だから芝生はきれいに手入れされていた。芝生のスロープを上がりきって平坦になったところは、プールサイドのすぐ外だった。

 湖、芝生のスロープ、そしてプール。プールの向こう側には、水族館につながる道があった。そしてその道の縁から、複雑な急傾斜を持った深い森が始まっていた。湖の標高はちょうど千メートル。このくらいの高さがあれば、真夏をも快適に過ごすことが出来た。

 ある年の夏の、ちょうどまんなかあたりのある期間、僕は彼女とふたりで、このホテルに滞在した。美しい彼女をさまざまに眺めていればそれでいいという、そしてそれ以外にはこれと言ってすることもない、いま思えば幻のような夏の日々だ。

 プールのかたわらに日時計があった。きれいな造形の台座が立ち、その上にブロンズ製の日時計が取りつけてあった。日時計はすっきりと無駄のない、単純で鋭いかたちをしていた。盤面には直線や数字が複雑に刻んであった。古代文明で使用されていたものを正確に模したものであり、使いかたを知っている人にとっては、たいへんに正確な日時計なのだという説明がおなじくブロンズのプレートに刻まれて、盤面のかたわらに埋めてあった。

 その日時計のかたわらに立つ水着姿の彼女を、僕は写真に撮った。プールとともに、その日時計も、僕は気にいっていた。プール・サイドにいるときには、僕は何度も日時計を観察した。デッキ・チェアに寝そべっていることに飽きると、僕は起き上がってまず日時計へ歩いた。

 日時計が作る影を見ている僕のかたわらへ、プールから上がった彼女がやって来た。すっかり体の乾いている僕のそばに、全身から水をしたたらせて、彼女が立った。その彼女の全身がプール・サイドに作る影を、僕は見た。彼女の影は、日時計の影と、完全におなじ方向へのびていた。 

「きみも日時計だ」

 彼女の影を指さして、僕は言った。

「あなたもよ」 

「ふたりで日時計だ」 

「プールと日時計」 

「日時計の夏」

「それがテーマね」 

「今年の夏の」 

「そうよ」

 その夏の終わりに見た影を、僕は忘れることが出来ない。晴れた日の午後、僕は彼女とふたりで、街のなかで過ごした。ふたりで過ごす時間は終わった。彼女には次の予定があった。坂の下の交差点までいっしょに歩き、そこの横断歩道で僕は彼女と別れた。

 僕は歩道に残り、彼女は横断歩道を道の向こう側に向けて、歩いていった。僕も彼女も、背中を西に向けていた。だから西陽をうしろから受けとめていた。立ちどまっている僕の影が、横断歩道のなかばを越えてさらにその向こうまで、まっすぐにのびていた。

 歩いていく彼女の足もとから、彼女の影もまた、僕の影とおなじ方向へ、のびていた。途中で彼女は振り返った。その彼女に僕は手を振った。僕の手の作る影が、歩いていく彼女のくるぶしのあたりと、重なった。

 彼女は歩いていき、僕は手を振り続けた。彼女は横断歩道を渡った。僕の手が作る影から、彼女の足は抜け出した。横断歩道の上に僕の腕の影が長くのび、その突端で僕の手の影が、左右に動いていた。彼女は振り返ることなくそのまま歩き続け、僕はひとりで手を振った。日時計のような自分の影に向けて、僕は手を振った。

底本:『坊やはこうして作家になる』水魚書房 2000年

シリーズ・エッセイ|五つの夏の物語|

7月29日|五つの夏の物語|1


8月13日|五つの夏の物語|2


8月16日|五つの夏の物語|3


8月17日|五つの夏の物語|4


7月30日|五つの夏の物語|5


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2016年8月17日 05:30
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