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一冊の素晴らしい本を読んだ。そして僕は、地球に別れを告げる旅に出た

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 忘れもしない一九六八年、僕はレイチェル・カースンの書いた『サイレント・スプリング』(邦訳は新潮文庫『沈黙の春』)という本を読んだ。人間が自分たちの都合のために作り出したさまざまな化学薬品、特に殺虫剤が、地球の生態系に対していかに潰滅的に作用するかについて、もの静かに立証的に解き明かした本だ。

 僕は夢中で読み、読んだあとぼうぜんとなった。地球の命が、遠からずかならず終わることを、一冊の本をとおして直感すれば、誰だってぼうぜんとなるだろう。やがて立ちなおった僕は、旅に出ることを思い立った。地球はほどなくその生命を人間によって絶たれる。それまでにまだすこしは時間があるから、いまのうちにこの地球に対してお別れの挨拶をしておこう、と僕は思った。

 はじめは地球を一周することを考えたのだが、最終的には太平洋の南西部一帯をめぐり歩くことになった。ごくおおまかな計画だけ作って、一九六八年の十二月はじめ、僕は機内持ち込みの小さなスーツケースひとつで、太平洋の上空へジェット機で舞い上がった。

 ハワイへいってすべての島をめぐり、ソシエテ群島まで下り、タヒチを中心にその近辺の島をいくつかまわった。それから西サモアへ出た。いくつかの島をめぐったあと、フィージーへいった。ここにしばらく落ち着き、周辺の島を訪ねては時間を過ごした。

 そのあとニュージーランドまで下った。ふたつの島のほぼ全域を見て歩き、オーストラリアへ渡った。シドニー、キャンベラ、メルボルン、アデレイドと転々としていき、パースに落ち着いた。この素晴らしい町のあと、日本で言うところのいわゆる東南アジアをめぐり歩いた。順番はすでに忘れてしまったが、ポートモレスビー、ジャカルタ、シンガポール、クアラルンプール、プノンペン、バンコクなどを訪ねてまわった。香港、台北を経て、日本へ帰って来た。飛行機は大阪空港で降りた。

 帰って来たら夏が終わっていた。だから合計で九か月以上を、僕は以上のような旅に費やした。行く先々の美しい海岸では、砂や海の波に別れを告げ、空や雲にさよならを言い、懐かしい、あるいははじめての町並みに、こんにちは、さようならと、心のなかで言って歩いた。

 それから二十年以上が経過し、地球はいよいよ危ない。およそ考え得るありとあらゆる汚染と破壊をその小さな体に受けて、地球は息もたえだえだ。このままあと十年もたてば、地球をみとることになるだろう。僕にとっての思い出の旅は、そのとき完結する。

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』太田出版 一九九五年


1995年 『サイレント・スプリング』 『水平線のファイル・ボックス 読書編』 エッセイ・コレクション レイチェル・カースン 片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』 環境 自然
2016年4月22日 05:30
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