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なぜいま僕はここにいるのだろうか

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 尾道は三度めだ。最初は僕が六歳か七歳の頃、父親の運転する米軍の車で通り抜けた。敗戦後まだ日の浅い時期だ。夏の暑い日だった。二度めは三年まえ、ある雑誌の連載記事の取材のため、編集者そして写真家とともに、坂の町と誰もが言うこの町を半日かけて歩きまわった。そのときとおなじ写真家、佐藤秀明さんとふたりで、つい先日、僕は三度めの尾道を歩いた。

 JRのすぐ海側に沿って国道が駅にむけて下り坂で下りていき、下りきって右側に駅があり、駅前を抜けるとそのまま国道は直線で西にのびていく、という位置関係は、六、七歳の頃の僕がほんの一、二分にわたって体験した位置関係と、ほとんどおなじだった。当時の建物がそのままいまも時間を巻き取りながら、いくつか残っているにちがいない。

 六、七歳の頃の僕がかつて通った場所から至近距離のところを、いまの僕がとおる。そこには何十年のへだたりがある、というほどでもないのだが、時間は充分に経過している。なぜいま僕はここにいるのだろうかと、時間の魔術を感じつつ僕は島へ渡り、橋づたいにいけるところまでいき、渡船に乗り、寺を巡る幅のせまい急な石段を、登ったり降りたりしてみた。石段の両側に、そしてその下に、いくつもの民家がひっそりと静かにしていた。

 アーケードのある商店街を、端から端まで歩いてみた。その商店街に対して直角に交わるかたちで、細い何本もの路地があった。路地を、僕と写真家は、歩けるだけ歩いてみた。

 いつかどこかで見たような細部が、路地のなかのところどころにあることに、僕はやがて気づいた。三十年、四十年といつのまにか経過していく時間のなかで、いま古びてしまい、もはや誰も目にとめなくなったようなディテールが僕の心のなかに蓄積をはじめた。

 そしてある程度まで蓄積されると、それらのディテールは既視感としてひとつのまとまりを持ちはじめた。ディテールが古ければ古いほど、僕が感じる既視感は強かった。路地の奥にじっと沈殿しているような空気の感触も、いまは遠い時間のなかのどこかで、かつて僕の肌に触れたことのある時間であるように、僕は思った。

 とある路地のなかほどで、僕はカマドの煤取り口を見つけた。薪を炊いてその火力を炊事に使う民家のカマドは、煙を屋根の上へ逃がす煙突の途中、カマドから煙突への直角になった曲がり角に、煤を取り出して掃除するための小さな口がある。その口を僕は見つけた。

 朝な夕なに薪を炊いていると、カマドの内部には思いのほか大量の煤がたまる。いい色調の黒い色をした、ふわふわした感触のある煤だ。この煤を定期的にかき出すための口が、煉瓦ひとつの大きさに開けてあり、そこにはごく普通の煉瓦が一個、蓋としてはめこんである。蓋の表面には単純な工作でつまみの部分が彫りつけてある。このつまみを持って、僕は蓋をはずしてみた。子供の頃に体験したのとまったくおなじ重さと感触で、蓋ははずれた。おなじ煤の匂いがした。

 僕の心のなかに蓄積されていく既視感の謎は解けた。子供の頃に岩国と呉に住んだことのある僕は、イワクニからコウべあたりまで、知っていると言えば知っている。ヒカリ、ヤナイ、イワクニ、タケハラ、ミハラ、オノミチ、カコガワ、アカシ、コウべなど、懐かしい地名だ。駐留米軍の専用列車の窓から、こういう地名を僕はよく見た。

 ほとんどいつも引っ越しをしていた僕は、おかげでいろんな家に住んだ。もっとも好きになったのは、カマボコ兵舎だった。残念ながら黒い瓦に板壁の典型的な民家には住んだことはないが、友だちの家やよく歩きまわったいくつもの町のなかで、当時は子供の目をとおして、僕はディテールを記憶の内部へ取りこんだのだ。

 かつて見たっきり記憶の底に沈んでいたものが、尾道の路地を歩くにつれて、既視感として僕の記憶の表面へ浮かんで来はじめた。現実にまだ存在するそのようなディテールは、充分に古びていた。朽ちつつあった。どれもみな、消えていく寸前のような風情のなかにあった。すべては終わりつつあった。なにかの拍子には、たとえば海岸通りのように、すべてはあっさりと引き倒され、突き壊され、どこかへ完全に消えてしまう運命にあるディテールの数々を、僕は観察して歩いた。ときたま、写真家は写真を撮った。

 子供の頃に見て以来、記憶の底に沈んだままだったものを、いま再び見るのは、ある程度までという限定つきではあるけれど、懐かしい出来事だった。そして懐かしいすべてのディテールは、いままさに、時のはざまのなかに消えていこうとしていた。それらのディテールの数々を、僕と写真家は見送った。

「懐かしさとは、旅の原点ですね」

 と僕は写真家に言った。

「小旅行のなかで出会う懐かしさは、要するに失われた時間との、疑似的で一時的な再会です。再会であると同時に、それはお見送りでもあるのです。これは、もっとも純度の高い旅情ではないでしょうか」

 僕の理屈に写真家は苦笑していた。

 路地を出てふと見ると、万年筆の店があった。ショー・ウインドーの下部四〇センチほどが、古い万年筆でぎっしりと埋まっていた。客が新しいのに買い替えたとき、引き取ったものだろうか。どの一本も、失われた時というものの完璧な見本のようだった。

 万年筆店の隣りは宝石店だった。まだ買われぬままにウインドーのなかで箱の内張りが色あせていく真珠の首飾りも、たとえば白い柔肌の喉もとに彩どりを添えることなく、ただやり過ごして失うだけの時間の、美しく悲しい象徴だった。

底本:『ノートブックに誘惑された』角川文庫 1992年

今日のリンク|デジタルの光で視る季節|佐藤秀明の写真収録作品刊行

sato_nami


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2016年9月17日 05:30
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