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写真を撮っておけばよかった

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 過去は巨大な教訓だ。偉大な反省材料だ。教訓も反省も、僕の過去のなかにすら、おそらく無数に存在している。過去は文字どおり、とっくに過ぎ去った時間なのだ。戻ってはこない。しかしその過去のなかにあり続ける教訓や反省材料は、これから来るであろう時間のなかで、生かすことが出来ないわけではない。

 自分の過去のなかに拾うことの出来るどのような教訓や反省材料をめぐってであれ、たとえば、そのとき僕はそうすべきだったのにそうしなかったのは残念だといまの僕が思うというようなことは、ただひとつのことを別にすると、僕にはない。

 そのただひとつのこととは、あの過去、つまり当時は現在だったあの現在のなかで、なぜ自分は大量の写真を撮っておかなかったか、ということだ。あの過去とは、僕が大学生だった頃を中心とした時間だ。いまから三十年ほども前のことだ。つい昨日でしかないのだが、三十年前の東京は完全に消えていて、現在の東京のどこにも、それはすでに存在していない。

 徹底的に消えてしまって、いっさいなにも残っていない。当時の東京の街なみは、いまはどこにもない。これほどまでに完全に消えてしまうなら、なぜあのとき、まだ消えてはいない現在であったとき、自分はそれらを数多くの写真に撮っておかなかったのか。

 写真を撮るのは子供の頃から好きだった。高校生の頃には日課のように写真を撮っていた。しかし大学生になってからは、まったく撮らなくなった。少しずつ大人へと接近していくにしたがって、自分という現実を日々のなかで受けとめていくだけで、精いっぱいとなったからではないか。自分以外の現実にまでは、思いも視線も届かなかったに違いない、などといまの僕は推測してみる。

 僕は暇な学生だった。写真を撮るなら、そのための時間はいくらでもあったはずだ。どこへでもいけた。撮る気になりさえすれば、まずたいていのものは撮れたと思う。高校生の頃に使った写真機を、何台も持っていた。フィルム代はアルバイトをして作ればいい。しかし僕は写真を撮らなかった。そのかわりになにをしていたのかというと、すでに書いたとおり、これといってなにもしなかった。

 現在の東京は、何度にもおよぶ激変の果ての、しかもいまこの瞬間だけの、ほんの仮の姿だ。いまも東京は激変のさなかにある。何度にもわたる東京の激変に、いまは多くの人たちが気づいている。切実に気づいている。切実に気づいているひとりだからこそ、そのようなひどい変化をしていく以前の、あるいはその途中の東京を、少なくとも十万点くらいの写真に、撮っておくべきだったと僕は思う。

 僕が大学生だった四年間だけでもいいから、その四年を限度いっぱいに使って、東京の写真を徹底的に撮っておけばよかったのに。僕が大学生だったのは、一九五九年の春から一九六三年の春まで、という時代だ。皇太子成婚パレードがあり、岩戸景気が始まり、胎児性水俣病患者が公式に認定され、カラーTVの放送が開始され、大学生における女子大生の比率が急激に高まったというような四年間だ。

 東京オリンピックをはさんで、東京が、そして日本が、激変していった時代だ。激変するとは、それまであった生活のしかたがいっさい消えていき、それまではなかった生活がいっせいに立ち現れる、ということだ。その様子を、四年間だけでもいいから、なぜ自分は写真に撮らなかったのか。

 一日に三十六枚撮りのフィルムを一本だけ撮ったとしても、四年間でカット数は五万四千点にもなる、という皮算用を僕はいま楽しむ。ごく普通に写真心があるなら、四年間でこれだけ撮るのは、難しくもなんともない。そしてそれらの写真をいま観察するなら、消えて久しいつい昨日の、じつに興味深い東京のディテールが、ひとりの視点からびっしりと記録されているのを見ることになる。

 大学生だった四年間だけではなく、前後に時間を少しだけ延長させ、一九五〇年代なかばから一九七〇年代なかばあたりまで二十年間にわたって、東京のあらゆる様子を写真に撮り続けるという発想が、なぜ僕になかったのか。なかったものはなかったのだから、いまになってなぜと問いかけても、そのことに意味はほとんどない。なんらかの意味が少しでもあるとしたら、初めに書いたとおり、個人的な反省のための材料でしかないだろう。

 そしてこのような個人的な反省のなかから、激変はつとめて記録すべし、というような教訓を導き出すことが出来ると僕は思う。日本政府がその経済白書をとおして、「もはや戦後ではない」と宣言したのが一九五六年だった。そこからすでに、じつはバブルが始まっていた。激変した東京そして日本の、その激変を支えた根本理念は、バブルの原理だった。

 変化とは、それまではなかったものを手にするために、それまであったものを捨て去ることだ。戦後の日本はなにを捨て、なにを手にして来たのか。解説も評論もさまざまに可能だが、まだ捨てられてはいないときにそれらを写真に撮っておくなら、捨て去られたあとまでずっと、それらの写真は問答無用の記録として残る。

 たとえば一九五六年の東京で庶民を写真に撮ったなら、幼い子供をおんぶしている女性の姿が、それらの写真のなかに数多くとらえられたはずだ。現在の東京の街角で写真を撮って、子供をおんぶしている女性の姿を画面に拾うことが出来るかどうか。まず不可能だ。おんぶ、あるいは、おぶう、といった言葉すら、いまではもはや通じないのではないか。

 僕はけっして教訓を引き出そうとしているのではない。写真は変化を記録する、ということだけを言いたい。その変化の一部分を、僕は自分の手で、写真に撮っておきたかった。しかし、僕は撮らなかった。それが残念だ、といま僕はひとりで思い、反省している。もし撮っていたら、いま頃はどの写真も、傑作へと変化しているはずだ。街なみを撮った写真は、三十年も経過すれば、すべて傑作となる。なぜなら、変化によって失われた過去は、その写真のなかにしか残っていないのだから。僕は傑作を手にしそこなって残念がっているのではない。変化によって失われていく現在というものに鋭く気づき、その様子を自分の手で写真のなかに残したかった、と言っているだけだ。

 数年前、JRのあの駅から大学まで、僕は歩いてみた。卒業してから初めてのことだった。僕が大学生だった頃、このルートは学生たちの通学道であり、この地域を中心にした学生街と言っていいような、地域共同体にとっての背骨だった。地域ぜんたいは有機的なまとまりを持ち、人々の日常生活がそのなかにあった。

 卒業してから初めてその道を歩いてみた僕は、荒廃のみをそこに見た。大学は低迷したスラムのようだったし、周囲の地域からは、日常生活がほぼ根こそぎ消えていた。駅からの道路は自動車による多忙な流通経路以外のなにものでもなく、両側の歩道に面したかつての商店街は荒れているか消えようとしているかの、いずれかだった。

 なにがどう荒れようが消えようが、僕はいっこうに驚かない。日本の東京に住んでいるなら、荒廃と消滅は日常の基礎だと思っている。しかし、かつてはこうだったのだよと過去を伝える記録は、充分に存在していてほしいと僕は願う。

 そしてその願いを自分の身の上に重ね合わせると、暇そのものが学生の顔をして歩いているようだった自分に関して、なぜあのとき東京を写真に撮らなかったのかという思いが、過去のエッセンスさながらに抽出されてくる。

(『坊やはこうして作家になる』2000年所収)


今日のリンクとお知らせ:小説、エッセイにつづき、「片岡義男全著作計画」の新たなコンテンツとして「写真」が加わります。片岡義男の撮影した5000点の写真をおさめたフォト・ライブラリー《kataokaフォト》の公開準備をすすめています。昨日、ほんの一部ですが、サンプル版を公開しました。《kataokaフォト》では、”後悔”のあとの片岡さんの仕事を見ることができます。どうぞご期待ください。

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2000年 『坊やはこうして作家になる』 写真 戦後 撮る 時間 東京 過去
2016年6月13日 05:30
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