アイキャッチ画像

コーヒーもう一杯 

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

 七月が終わった。もう八月だ。いまは朝の八時。どんよりとした、という定石的な形容詞がぴたりとあてはまる、すこし重い感じの曇った日だ。気温は、八月のスタート時期にしては、すこし低い。風がとまっている。

 ぼくは、コーヒーを一杯、いれてきた。オートマティック・ドリップ・コーヒーメーカーをつかっていれたコーヒーだ。粉はマクスウエル・ハウスの、オートマティックドリップ用のコーヒーで粉の量はほんのすこしでいい。かたむけたコーヒー・カップから例によって最後の一滴が落ちていこうとするところが、缶に貼ったラべルに描いてある。マクスウエル・ハウスの標語のようになっている、「最後の一滴までおいしい」(グッド・トゥ・ザ・ラスト・ドロップ)という文句が、その最後の一滴の絵に、そえてある。

 コーヒー・マグは、L・L・ビーンで買ったものだ。四つでワン・セットになったもののうちのひとつで、厚みや重さ、それにぜんたいの量感は、日本ではなかなか見つけにくいものだ。昔の汽船や汽車の食堂車などでよく使われていた、どっしりしたへヴィ・チャイナのマグだ。なんの変哲もないかたちをしていて、リチャード・ビショップによるウオーター・ファウルの絵が、黒一色で印刷してある。

 コーヒーといっしょに、三枚のLPを、部屋に持ってきた。そのうちの一枚をジャケットからとり出し、ターンテーブルに、いまぼくはのせた。針をおろす。聴きたい曲は、B面の二曲目だ。

 フィニアス・ニューボーンのジャズ・ピアノが、鳴りはじめる。バラッド奏法に徹している。曲名は、『ブラック・コーヒー』という。

 1948年にサラ・ヴォーンが唄ってから有名になり、それ以来、ジャズのスタンダード曲として生きつづけている、たいへんによくできた歌だ。

 聴きながら、ぼくは、ぼく自身のブラック・コーヒーを飲む。フィニアスのピアノを支えているのは、べースがレイ・ブラウンで、ドラムスがエルヴィン・ジョーンズだ。

 歌詞の文句の断片が、心に浮かんでくる。酒落た、いい歌詞なのだ。

 ピアノ・トリオによる『ブラック・コーヒー』の演奏を聴きながら、ぼくは、フロアに置いたLPをもう一枚、手にとってみる。彼女をジャズ歌手と呼ぶことに反対する人たちもいるかもしれないが、そのペギー・リーによるジャズのスタンダードの名唄盤のLPだ。LPのタイトルは『ブラック・コーヒー』となっていて、その曲はA面の一曲目に入っている。

 ジャケットの写真が、なんとも言えず古くさくていい。黄金色のパーコレーターのかたわらに、かなりしつこく模様の入ったコーヒー・カップと受け皿。カップのなかには、ブラック・コーヒーがたっぷりと入っている。

 一輪の赤いバラと、真珠のチョーカーが、いかにも写真を撮るために配置しました、という感じで、置いてある。画面の奥のほうには、ピントをあいまいにして、白い砂糖つぼやミルク・ポット、それに花瓶に生けた植物などが見える。

 このLPは、1953年に25センチLPとして発売され、1956年にあらたに四曲が加えられて30センチLPになったという。ジャケット写真は1956年につくったものにちがいない。

 フィニアス・ニューボーンのピアノが、いい感じで終わった。ターンテーブルのうえのLPを、ぼくは、ペギー・リーのLPとかえる。A面の一曲目に、針をおろす。そして、ブラック・コーヒーを、すこし飲む。

 ペギー・リーが、唄いはじめる。かすれた声だ。わかりやすいかたちだが、せつない感じをよく出している。ぼくの記憶ではもうすこしテンポが速かったような気がするのだが。もうすこし速いのは、ジュリー・ロンドンだっただろうか。あとで、ジュリーの『ブラック・コーヒー』も、聴いてみることにしよう。

私はとても寂しく
ひと眠りもしていない。
フロアを歩きまわり
ドアのほうを見てばかり。
そしてそのあいだに
やることといえば
ブラック・コーヒーを飲むこと。

 歌詞の出だしの部分は、こんなふうだ。英語だと、「ブラック・コーヒー」の二語がいちばんおしまいにきて、やるせないメロディとあいまって、非常にうまくきまっている。

愛とは誰かのおさがりのブルース。
ウィーク・デーばかりのこの部屋で
私が日曜を知ることは
まずないだろう。
午前一時から四時まで
話し相手は影だけだ。
そしてこんなときには
時間の歩みはとてもおそい。
その時間のなかで
いまの私がやることといえば
ブラック・コーヒーをまた一杯
カップに注ぐだけ。

 女性がひとり自分の部屋にいて、ブラック・コーヒーを飲みつつ、来ない人を待っているのだろう。あるいは、来ない人を待ちつづけるということが比喩的につかわれていて、ようするに彼女はじっとひとりで寂しさに耐えているのかもしれない。
ペギー・リーの歌が終わった。レコードをターンテーブルからはずし、ジャケットのなかにかえす。

 そして、三枚目のレコードを、フロアからぼくはとる。

 その昔、ナッシュヴィルのアーネスト・タブのレコード・ショップで買ってきた何枚ものレコードのうちの一枚だ。いまはもう廃盤にちがいないが、デッカのフル・ステレオ盤というやつで、念のために番号を書いておこう、DL74459だ。

 ウェスタン歌手のアーネスト・タブが、自分のバックアップ・バンドであるテキサス・トルーバドアズを主役にしてつくった一枚のLPだ。偉大なるダディであるアーネストはみじかいライナー・ノートを書いているだけで、唄ってはいない。

 ジャケットの、これまたなんともいえない古風な写真には、いまは独立しているジャック・グリーンやキャル・スミスたちがいる。

 このLPのなかでぼくがいちばん好きなのは、A面の三曲目に入っている曲だ。タイトルは『コーヒーをもう一杯飲んだら、ぼくはいくよ』といい、キャル・スミスが硬い張りと艶のあるバリトンで、あっさりとした仕上がりに持ちこんでいる。

 この歌は、大好きな歌だ。ひところのぼくにとって、テーマ・ソングと言っていいほどにしっくりと、ぼくの気持ちのこまかいひだの内部にまで入りこんできていた歌だ。

 タイトルは『コーヒーをもう一杯飲んだら、ぼくはいくよ』となっているが、キャル・スミスが唄うのを聴いていると、歌詞のなかでは「コーヒーを一杯だけ飲んだら、ぼくはいくよ」なのだ。もう一杯、ではない。

 主人公は、男だ。その男は、どうやら離婚するらしい。妻と子供に別れを告げ、町を出ていくのだ。

 夜、その主人公が、つい先日までは自分の奥さんだった女性のところに、やってくる。離婚が正式になって以来、彼のほうが家を出て、町のホテルでひとりずまいでもしていたのだろう。ぼくはこの町を去ることにきめたよ、コーヒーを一杯だけいれてくれないか、それを飲んだらぼくはいくよ、とまず最初の部分で、うたわれている。「ジャスト・ア・カップ・オブ・コーヒー」は、文字どおり「コーヒー一杯だけ」なのだが、日常的なニュアンスとしては、「ほんとに、もう、すぐにおいとましますので、どうぞおかまいなく」というような意味を持つことだってある。この歌の場合もそれに近く、コーヒー一杯だけでいいと彼が言うからには、妻子と別れて町を出ていくという決意はもうきちんとできていて、別れは決定的なのだということが、はっきりとわかる。

 おかねを持ってきたよ、と彼は言う。離婚にあたっての、慰謝料や子供の養育費の、第一回の支払い分、という感じなのではないだろうか。

 昨夜ぼくがここに立ち寄ったことを子供たちに伝えてくれとか、かつてきみがぼくの腕のなかで甘くあたたかかったのとおなじように甘くあたたかいコーヒーを一杯だけいれてくれ、などと彼は言う。

 歌は、みじかい。たちまち終わりに近づいていく。コーヒーは一杯だけであり、もう一杯ではないではないか、どうしたのだろう、タイトルがまちがっているのだろうかと心配になりはじめる頃、歌は終わる。

 その、終わる寸前、それまでは「一杯だけでいい」と言いつづけてきたコーヒーが、アナザー・ハーフ・ア・カップ・オブ・コーヒーとなる。「コーヒーを、あと半分だけ」だ。もう一杯ではないところが素晴らしいわけで、一杯飲んでさらに半分だけというのは、別れることにきめた妻への未練なのだろうか、それともエチケットのような礼儀なのだろうか。別れたときめてもやはりなんとなく去りがたいのだろうか。コーヒーをただ純粋にあと半カップだけ飲みたい気持ちでいるのではないことだけは、たしかなのだが。

底本:『コーヒーもう一杯』角川文庫 1980年


『コーヒーもう一杯』 アメリカ コーヒー ジャズ ペギー・リー 曲名|ブラック・コーヒー LP
2015年10月19日 14:36
サポータ募集中