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一月一日のこと

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 掘りごたつのある部屋へもどって来た彼女は、美しい身のこなしで彼とさしむかいの位置にすわった。

 さきほどまでふたりで遊んでいたバックギャモン用のサイコロをふたつ手にとり、テーブルのうえにやさしく転がした。

 サイコロはテーブルのうえに音をたてて転がり、すぐに静止した。ふたつとも三の目を出していた。彼女は歓声をあげ、手を叩いた。三のぞろ目、三十三だ。三十三は、今年の彼女の年齢だ。

 「今年もきっといいことがあるんだ」

 ふたつのサイコロを見ながら、彼が微笑して言った。

 サイコロに、彼女は、かたちのよい白い指さきを触れさせた。

 「いま、こんなにいいお正月をすごしているのですもの、いいことはすでにはじまってるわ」
 と、彼女はこたえた。

 いまは正月の休みだ。ふたりは、温泉へ来ている。年のはじめの何日間かを、ゆっくりと、ふたりだけですごす予定だ。ふたりの関係は、恋人どうし、とでも言っておけばいいだろう。

 部屋はきりっとした京風の数寄屋づくりで、掘りごたつは居心地がよく、窓からは高原の広がりのむこうに海が見える。天気は快晴だ。

 「もしこれがきみの言うとおり、いい正月なら、よくない正月とはどんなものなのだろうか」
 と、彼がきいた。

 彼の問いに、彼女はしばらく考えた。そして、
 「よくないかどうかまだ判断できないけれど、たいへんつらかったお正月なら、すぐに思い出せるわ」
 と言った。

 彼の求めに応じて、彼女は、そのつらかった正月について、静かに語りはじめた。

 五年前、彼女は二十八歳だった。当時は結婚していて、夫がいた。仕事を持っていた彼女は、常に多忙だった。自分自身のための目標をさだめ、それにむかって進んでいくという状況ではなく、とにかく夢中で仕事をしているとその結果として彼女はいつも多忙である、という状況だった。夫とは、すれちがいの生活がつづいた。仕事の内容はほんとうは地味なのだが、一般的には派手な世界と思われていて、夜おそくまで仕事の時間がつづくのはごく普通のことだった。収入は、夫よりも多かった。

 いろんなことがつみかさなった結果、夫との仲がうまくいかなくなった。夫は恋人をつくってその女性と夫婦同然になっていることが、やがてわかった。離婚の話が持ちあがった。

 自分のほうから離婚を持ち出しておきながら、夫はいつまでもぐずぐずとしていた。彼女の仕事は忙しく、ふと気が弱くなったりするときにはこのまま自分は押しつぶされてしまうのではないかと、不安になるほどだった。

 二十八歳の正月を、彼女はひとりですごした。十二月三十日に一年の仕事を終え、三十一日は抜けがらのようになってすごした。一月一日は部屋でひとりきりだった。夫は、恋人のところへいってしまったままだった。かわいくておとなしいタイプの女性だということを、彼女は知っていた。

 「一月一日は、今日とおなじような快晴だったの。ひとりでドライヴにいったわ。道路はすいていて、一日じゅう海沿いに走ったの。そして夕方、海岸で夕陽を見たのよ」

 冬の、美しい夕陽だった。永遠不変のように堂々と絶対に存在するその壮大な夕陽をじっと見ていると、自分がものすごく不安定で小さなものに思われてきて、どうにもならないほどに不安で悲しい気持ちに彼女はなったという。

 「休みが終わってすぐに強引に離婚し、仕事をやめ、部屋も売り払い、自動車に身のまわりのものをすこしだけ積んで、旅に出たの。なんの当てもなく沖縄のさらに南の島までいってしまい、夏の終わりには台風にあって、居候させてもらっていた家の屋根が吹き飛んだわ。来年の台風のころには子供が生まれているというその家の女性といっしょに、台風一過の海をながめたの」

 そこから彼女は立ちなおり、五年かかって現在の状態を手に入れた。仕事は多忙だが、その忙しさの内容は、かつてとは次元がちがう。

 完璧に成熟した素敵に美しい彼女にも、さがせばつらい時代はあるのだ。テーブルの上でそれぞれ三の目を出しているふたつのサイコロに、彼女は、いつくしむように指さきを触れた。三十三回目の正月は、いまのところ、ひとまず上出来だ。

『すでに遥か彼方』角川文庫 1985年所収
底本:片岡義男エッセイ・コレクション『「彼女」はグッド・デザイン』太田出版 1996年


1985年 1996年 『すでに遥か彼方』 彼女 正月 片岡義男エッセイ・コレクション『「彼女」はグッド・デザイン』
2016年1月1日 05:30
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