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おそすぎたラブレター

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 古い教科書の表紙をあけると、最初の白いページに、先生のお名前が鉛筆で書いてあります。黄色く変色してしまったページに、当時のぼくの筆跡で、ミス・キャシー・ブルックス、とだけ、力をこめて書いてあります。順おくりに何回もおさがりになってきた教科書でしたから、先生に教えていただいたころすでに古びていました。あのときのままにいまでも何冊かの教科書が、ぼくの本棚にあるのです。久しぶりに手にとってみて、タイム・マシーンに乗ったような気持ちになりました。KEEPING HEALTHY(健康にしていましょう)というタイトルの、日本でいえば保健体育の教科書です。ご記憶ですか。

 お風呂に入って顔や体を洗うことに関しての説明のところには、耳のうしろをよく洗いましょう、と書いてあります。学校で、朝、教室に入ってまっさきにおこなわれたモーニング・インスペクションのことを、思いだします。ぼくたち生徒が教室の前で一列にならび、先生のインスペクションをうけました。指のツメを見てもらい、歯がきれいだかどうだかロをあけ、髪や服の清潔さ、そして、耳のうしろがよく洗ってあるかどうか、先生は調べてくださいました。

 なぜ、ことさらに、耳のうしろなのですか。いまでもくせが抜けずに、顔を洗うとそのついでに耳のうしろを洗ってしまいます。耳のうしろを洗うのは、アメリカ新大陸開拓時代の名残りではないのかと、いまにしてぼくは思うのですが、どんなものでしょう。

 朝、日の出と共に外へ出て働き、陽に照らされ汗をかき、土ぼこりをかむりますと、耳のうしろに汗で土ぼこりがかたまってきます。これを、一日の仕事の終わったことの証明がわりに、開拓者たちは、手おけの水で洗い落としていたのではないでしょうか。耳のうしろを洗うと、なんとなく体ぜんたいがきれいになったような気がします。

 モーニング・インスペクションで先生の前へ歩み出ますと、いつもとてもいい香りがしました。どこから漂ってくるのだかわからないのですが、おなじクラスの女のこたちは、ミス・ブルックスの香りと言って、あこがれ、うらやましく思っていたのです。ぼくたち男のこは、先生の香りを話題にはしませんでしたが、誰もがいつまでも鮮明に記憶していたはずです。

 すっきりとしたシンプルな仕立ての、男物のようなカシミアのジャケットにスカート。ナイロン・ストッキングにハイヒール。ストッキングはうしろに線があり、かたちの良いふくらはぎの上で、いつもその線はまっすぐにスカートの中に消えていました。

 先生の美しさの、最大の鑑賞者は、ぼくたちだったのです。

 ジャケットの下のブラウスがいつも淡い色で、さらさらとして柔らかく、そのブラウスにおおわれている張りのあるふくらみは、神秘的な夢でした。

 なんという馬鹿なことをぼくはいま書いているのでしょうか。

 ぼくたち男のこの誰もが、ぼくたちの美しい先生ミス・キャシー・ブルックスに対して、何通もの書かれざるラヴレターを秘めていたのです。先生があこがれの対象でありながら、そのあこがれの気持ちを具体的にどうすればいいのか、ほとんどなにもわからずにいた遠い昔です。

 航空母艦の上でおこなわれたパーティで、先生の水着姿を見たことがあります。夏の暑い日に、瀬戸内海のどこかに浮かんだ航空母艦の上でした。あれは、どこだったのでしょう。少年が持つ冒険への夢をかりたてずにはおかない小さな緑の無人島が、すこし離れたところにいくつも見えていました。春から夏いっぱい、瀬戸内海には、よく出むきます。そのたびに、航空母艦のフライト・デッキで肌を陽に焼いていた先生のことを思い出します。アメリカには昔から水着美人が多いのですが、最高の水着美人はミス・ブルックスです。

 航空母艦と無人島、それに艦内格納庫の戦闘機にすっかり心をうばわれていたぼくたちにとって、陽の中で輝いていた先生の姿に、おさない冒険の夢は、なぜだか奇妙にきまりわるいものに感じられました。無人島や戦闘機のたたずまいよりも、先生の曲線のほうがはるかに良かったのです。

 あの夏の終わりと共に、先生はアメリカにお帰りになりました。ぼくたちの記憶の中で、先生はいつまでもあの日のままです。

 ある日、突然、昔の生徒からこんな手紙が届くのも一興かと思い、ながい手紙を書いてしまいました。ひょっとして、これは、充分におそすぎたラヴレターなのかもしれません。

初出:『アップル・サイダーと彼女』角川文庫 一九七九年
底本:片岡義男エッセイ・コレクション『「彼女」はグッド・デザイン』太田出版 一九九六年


1979年 『アップル・サイダーと彼女』 アメリカ 女性 少年時代 瀬戸内 片岡義男エッセイ・コレクション『「彼女」はグッド・デザイン』
2015年12月19日 05:35
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