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アイラ・ウッドの『キチン・マン』はなぜ面白いか

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本読み二章 アイラ・ウッド『キチン・マン』

■面白かったほうの本の話をうかがいましょうか*。

 たとえば、アイラ・ウッドの『キチン・マン』ですね。はじめて聞く名前ですし、この小説は彼にとって最初の作品だそうです。劇作はたくさんおこなっていて、奥さんとの共同の作品もあったりするそうです。

『キチン・マン』を、ぼくはじつに面白く読みました。ウイットの的確にきいた、思いきってシャープな、それでいて優しく、感情の表現の正直な、まさにいまにふさわしい作品です。まずなによりも、ぜんたいの感じが、いまおよびこれからの作品なのだと、ぼくは思いました。

■どのような意味において、いまなのですか。

 ぜんたいのストーリーもそうなのですが、重要なのは特に主人公の男性、ゲイブリエル・ローズの、性格やありかたの設定ですね。彼は、きわめて男性的なのですけれど、女性と対等であってその上で、男性なのです。ドラマを彼がリードしていくとか、彼があくまでも主役であるとか、登場する女性たちに対してこれまでどおりの男性的な役割を果たすとか、そういうことはまるでなくて、女性と対等なのです。彼によって相手の女性が、従来どおりのかたちでリードされていくとか、彼が進展させていくストーリーのなかで女性がそのストーリーに従う立場に立つとか、そういったことが、ここではまったくないのです。読んでいて、そこがまず、非常にいい気分です。

■ストーリーは、どんなものなのですか。

 ゲイブリエル・ローズという三十代なかばの男性は、夜はボストンの一流のレストラン「昨日の雪」で、ウエイターをしています。そして昼間は、劇を書いています。彼は、劇作家になりたいのです。『キチン・マン』という劇をひとつ書いて、それをあちこちの劇団とか演出家に送っているのですが、リジェクションばかりで、まだ彼は海のものとも山のものともわからない状態です。

 そんな彼が、ある夜、客として店に来た女性と、親しくなります。その女性は、シンシア・ケイガンといって、劇作をするし演出家でもあり、大学で演劇の講座を受け持ったりする、すでに演劇の世界ではある一定の位置を占めている女性なのです。

 小説ぜんたいは、シンシアとゲイブリエルとの関係の物語ですね。彼の時間と彼女の時間が、最初は別々に存在するのですが、関係が深まりストーリーが進展するにつれて、ふたりの時間は重なっていきます。それぞれが持っている時間が重なることによって、ふたりの時間は豊かになります。

 ふたりの時間はひとつになり、そのひとつになった時間は、一プラス一がいったいいくつになるのか、計算するのも馬鹿らしいほどに大きく広く深く、豊かなのです。

 彼は、劇作への思いはずっと維持させていて、『キチン・マン』に対して熱意を表明してくれた唯一の、小さな劇団の主宰者と、プロデュースのための共同作業に入ったりもするのですが、なかなかうまくいきません。

 新しい作品を書く作業は、シンシアといっしょに大学で教えている、かつての彼女の恋人である男性に対する嫉妬によって、はかどらなかったり、あるいは、ゲイブリエルは一種の主夫みたいな役割を引き受け、さらに夜はウエイターとして仕事をしているのですから、そちらに時間をとられたり、とにかく、主婦が家庭のほかになにかを本気でやろうとするときに直面するいくつもの問題が、男性であるゲイブリエルの身にふりかかってきます。

 シンシアとの関係は充実して深まっていくのですが、ゲイブリエルの劇作は、進展していかないのです。このへんも、ぼくは面白いと思いました。愛する女性との関係は深まり、充実し、ふたりの時間は分かちがたくひとつになるのに反して、彼の劇作での業績はいっこうに進展しない設定というものに、ぼくは賛成です。ボストンでもっとも優秀なウエイターに選ばれたりして、ウエイターとしては有名になるのですが、劇作は最後まで進展しないのです。シンシアとの関係のなかで体験したり見聞したりするもののなかから、女性に対する男性の嫉妬、という問題を劇のテーマとしてみつけ、それについて書いてみようか、という程度の進展で終わっています。シンシアとの共同作業になっていきそうな暗示があるだけで、この小説のなかでの彼の劇作はそこまでなのですが、シンシアとの関係は、むくわれるところの大きい、満足のいく、ふたりでひとつの、とてもいい関係に育っていきます。

 重要な女性として、シンシアのほかにもうひとり、フローレンスという女性がいて、彼女はシンシアよりもずっと年長です。名門の家の娘で、たいへんに魅力的で、能力も充分にあるのですが、すでに老いていて、しかも不治の病にかかっています。登場人物として充分に元気ではあっても、しかし、確実に死にむかっているのです。

 小説の後半から、シンシアとゲイブリエルとは、このフローレンスといっしょに住み、彼女の世話をするようになります。フローレンスはすこしずつ画面から抜け出ていって、最後には死ぬのです。そして、フローレンスが抜けていくことによって、シンシアとゲイブリエルとは、もはや不可分の関係へと、完全にひとつに練り合わされていきます。このあたりは、さりげなく巧みで、感心しました。

■シンシアに対して、ゲイブリエルは、男の妻のような役割を果たすのですか。

 そう言っていいとぼくは思います。相手はシンシアだけではなく、フローレンスもいるし、周辺には多くの人たちがいて、いろんな関係が存在しています。それに、夜は、働いているレストランでの仕事とそこでの関係がありますから、ゲイブリエルは、大変なのです。しかし、その大変さを、これまでとは大きくちがったやりかたで、彼は楽しんでいます。そして最後には、自分の周囲にいる人たちすべてにとっての、キチン・マンになってみせます。

 ぜんたいのなかを走っているひとつの大きなストーリーは、たいしたものではないのですけれど、いろんな人たちとの関係がそのつど生み出す小さなエピソードはたくさんあり、それが並列にならぶことによって、この小説は成立していました。

■ゲイブリエルの一人称で書かれているのですか。

 そうです。当人の一人称ですから、当人の気持ちは、当然、どんなことであれ、説明はこまかくいきとどきますよね。しかし、相手の気持ちは、こう思った、ああ思った、とは一人称では書けませんから、それが誰であれ、相手の気持ちを推測することは出来ても、相手に喋らせる以外に、きちんと書くことは出来ないわけです。一人称という書き方の、こういった制約ないしは利点を、アメリカの小説は巧みに利用してます。

 どんなふうに巧みかというと、相手に存分に喋らせることによって、さまざまな相手は、一人称の当人と、顔を合わせるたびに、おおげさに言うなら、対決的な関係に立つのです。

 しっかりと独立し確立されている一人称の当人とわたり合うのですから、どの相手たちも思いっきり喋る必要があり、そのことによって関係のひとつひとつが緊張を高め、 エピソードの連続を面白くさせていくのです。

 どんなに親しい仲でも、そしてどんなに毎日のように顔を合わせていても、合うたびごとに、そのつどあらためて、対決的にどのふたりも関係しあうのだという、放牧・狩猟民族の特徴的関係のありかたが、この小説にもはっきり出ています。

 ふたりの男女が、物語の最後では自分たちの時間を不可分にひとつにしてしまうというようなストーリーは、アメリカではなかなか書けないようにもぼくは思うのですが、アイラ・ウッドはそれに成功していました。主人公のゲイブリエルが、女性と対等だからです。面白い小説を書こうと思ったなら、女性と対等に、きちんとつき合うことですね。俺は男だとか、男のロマンだとか、つまらないことを言ってないで、女性とのつき合いをきちんと対等にすることです。

■ゲイブリエルには、中性化の傾向とか、女性のほうに大きく傾いてしまう、ということはないのですか。

 ありません。そうなってしまったら、面白くないでしょう。ゲイブリエルは、きわめて男なのです。きわめてへテロセクシュアル、と言ってもいいですね。三十代なかばで、すこし肥り気味で、体のアクションもリアクションも、さらには気持ちの動きなども、すべて、男なのです。しかし、それであってなお、相手の女性とは対等であり、シンシアに対しては男の妻のようでもあり、シンシアを中心にした人たちの関係のなかでは、キチン・マンなのです。

 ゲイブリエルとシンシアとの関係が出来るまでのくだりが、圧巻でした。彼がウエイターをやっている店へ、シンシアが客としてやってくる。あの女性は演劇の世界では力を持っている女性だから、彼女への接近を工夫しろ、と同僚にけしかけられて、彼はシンシアから電話番号を聞きだすことに成功します。

 後日、彼女に電話をかけ、接近をはかります。このあたりは、これまでの主役の男性たちとはまるで動きかたや考えかたがちがっていて、じつにいいです。

 ほかに女性のいる男性とは絶対に私はつきあわないのだとシンシアに言われたゲイブリエルは、医者になることを志して仕事をしているディエドルという美しい女性に会いにいき、彼女と別れることにします。このディエドルとのセックス、そしてシンシアとの最初のセックス、これはゲイブリエルが一時的に不能となってそのときは成功せず、シンシアは彼を早くも捨てることを決意します。そして、演劇の仕事でデンマークへいきます。ゲイブリエルはデンマークまでシンシアを追いかけていき、仲なおりして、関係が出来はじめます。このあたりまでが、最高に面白いですね。

 まず、恋人のディエドルとのセックスの描写が、ディエドルというひとりの独立した存在の内面を、あっさりとではあるけれど的確に鋭く描くために機能していて、その機能のしかたはこれ以上に正しくはなり得ないほどに正しいものなのです。ディエドルという女性の内面と、その彼女との関係のなかでのゲイブリエルのありかたのふたつが、一ページ以下の分量を使ったセックスの場面で、描ききってあるのです。

 男性であるゲイブリエルが主導するのではなく、ディエドルというひとりの存在が主導し、そのなかにゲイブリエルが入りこんでいる、というセックスです。そしてこのようなセックスは、シンシアとゲイブリエルとの関係のはじまりに対して、一種の伏線のように機能しています。

 ディエドルはまだ若くて、ほっそりとひきしまった、美しい、強靭な体なのです。そのような体の女性、そしてディエドルのディエドルらしさがもっとも端的に表現される場である彼女のオーガズムのありかたなどにしっかりとプログラムされているゲイブリエルが、あるとき突然、まるでタイプの異るシンシアという女性と、おたがいに相手を正面から引き受けあう行為であるセックスを持ったとして、ディエドルに対する彼の体や心のディプログラミングが完了していないのですから、ゲイブリエルはディエドルとはあまりにも異なったシンシアをまえにして、一時的に不能になるという状態は、たいへんに面白いわけです。女性ときちんとつきあおうとするなら、こういうことはしばしばあるはずだと、ぼくは思います。

 シンシアは四十代で、子供がいて、美しい人なのですけれど、ひとりの女性としてすでに完成していて、堂々たる肉づきの、強烈な個性を持った、力の強い、大人の女性です。ディエドルに対するプログラミングから、シンシアに対するプログラミングへと、ゲイブリエルが変化していく様子に、この小説の主人公であるゲイブリエル・ローズの神髄があるような気がします。

 ディエドルと彼とのセックスの場面は、ほんとに見事です。彼は彼として、そしてディエドルはディエドルとして、ものすごく正直なのですね。そのふたりの正直さが、きわめてプライヴェートな現場で提示される、その提示のされかたの好見本のひとつとして、セックスがあるのです。あからさまな描写、とは言えないのですけれど、充分にあからさまではありつつも、ゲイブリエルの一人称によって語られるディエドルおよび彼女と彼との関係の内部へ完全に昇華されたセックスなので、ただ単なるあからさまとはまるで反対の方向に結果としてはむかうものなのです。ぼくは、この場面だけ翻訳したいですね。

本読み二章 3

(『日常術 片岡義男〔本読み〕術ー私生活の充実』1987-po.21-27、エッセイ・コレクション『本を読む人』1995所収)

本読み二章 5

*以下の”質問”は、編集者からの事前の「中心的な質問」を「受け取ったのち、自分で自分に質問し、自分でそれに答えるというスタイルで、自分の読書について書いた」(あとがき)もの。


『日常術 片岡義男〔本読み〕術ー私生活の充実』 アメリカ エッセイ・コレクション 人名|アイラ・ウッド 小説|『キチン・マン』 書評 片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』 読む
2015年11月24日 05:30
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