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僕の肩書は(お利口)としたい

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 僕が13歳の頃、小田急線の車両はまだあずき色だった。少なくとも各駅停車の電車は、そうだった。13歳のある日、夕方近く、各駅停車の上りにひとりで乗って、僕は座席にすわっていた。経堂の友だちの家へいった帰りだった。

 電車が豪徳寺を出てすぐに、僕はふと気づいた。僕のすぐ斜め前に、ひとりの若い女性が立ち、片手で吊り革につかまり、もういっぽうの手には文庫本を開いて持ち、気持ちを集中させたような表情で、読んでいた。

 20代のなかば、あるいはなかばを過ぎたばかり、という年齢だった。いまと違って当時では、そのくらいの年齢の女性たちは、完全に大人の人だった。彼女も大人の雰囲気をたたえた、じつに堂々とした、姿のいい美人だった。

 平日の夕方近い時間の、上りの各駅停車のなかという、日常らしさをきわめた日常の光景とその雰囲気のなかで、彼女は異彩を放っていた。彼女は明らかに周囲から浮き上がっていた。

 ことさらに派手な服装、濃すぎる化粧、あるいは美人すぎる美人、といった要素はまったくなかった。美人であることは確かで、姿も良く、おとなしいものではあるけれど良く似合ったきれいな服を、なんの無理もなく彼女は身につけていた。

 きちんと髪を作って化粧している彼女は、だからそのままでどこへ出しても、立派すぎるほどに通用する出来ばえだった。彼女に特殊なところはなにもなく、特別な存在でもなかった。それでいてなお、小田急線の各駅停車の車両のなかで、彼女は相当に強力な違和感の発生源となっていた。

 電車のなかで吊り革につかまって文庫を読んでいる状態は、彼女にとっては日常以外のなにものでもなかったはずだ。しかしその日常は、どこにでもある日常とは、まるで質が違っていた。だからと言って、彼女が普通の日常とは無縁の、特別な世界の特殊な人であるというわけでもなかった。

 日常という平凡なレリーフのなかで、彼女ひとりだけは、ひときわ深く彫られ、ひときわ高く浮き出ていた、とでも言えばいいだろうか。吊り革につかまって文庫本を読んでいる彼女の周囲、360度、全方位に、彼女のそのような魅力が放たれていた。

 ひとりで座席にぼんやりすわっていた僕が彼女にふと気づいたとは、彼女のそのようなパワーに僕が反応した、ということだ。反応したとたんに僕は誘発され、反射的に席を立ち、「どうぞおすわりください」と彼女に言った。

 小学校の学芸会のお芝居で、台詞がそれひとつしかない端役の子供のように、僕はそう言った。普通の言いかたをしなかったのは、彼女が放っている非日常へと志向するパワーに、13歳の僕が精いっぱいに合わせようとした結果のことだ。

 彼女の視線が移動した。人の目から放たれている視線というものが、A点からB点へとはっきりと動くのを、僕はそのとき初めて見た。A点は彼女が読んでいた文庫本の文章、そしてB点はこの僕だ。僕へと視線を移動させた彼女は、一拍の間を取って次のように言った。

 「あら、ありがとう。でも、私はいいのよ。あちらのかたにすわっていただきましょうね」

 艶と張りのある声の、美しい軽さをたたえた口調で、おそろしく滑らかに、そして明らかに早口に、彼女はそう言った。

 当時のあずき色の車両では、フロアの何か所かに、フロアのまんなかから天井まで、支柱が立っていた。少し離れたところの支柱につかまって、着物を着た小柄な年配の女性がひとり、立っていた。

 その女性のところへ、美しい彼女は、じつに優美にそして素早く、歩み寄った。優しくかがみ込んで、なにか言った。席におすわりください、とでも言ったのだろう。年配の女性は笑顔で彼女を仰ぎ、礼を言った。美しい彼女に肩のあたりに片手を添えてもらい、年配の女性は僕が立った席まで歩いて来て、そこにすわった。そして美しい彼女にもう一度、礼を言った。

 美しい彼女は片手で吊り革につかまりなおした。そして絶妙の一拍を置いて僕に顔を向け、向けてから笑顔になり、にっこりと微笑し、
「お利口なのね」
 と、言った。

 そしてふたたび絶妙の一拍ののち、すでにページを開いてかかげていた文庫本に、彼女は視線を移した。今度はB点からA点へと視線が動くのを、このときも僕は見た。

 一件は完璧に落着した。小さな出来事は、そこで完全に終わった。電車は梅ヶ丘に停車し、すぐに発車した。そして僕は次の世田谷代田という駅で降りた。

ということをすでにすっかり忘れていたある日、僕は下北沢を歩いていた。かつての下北沢には、もっとも多いときで、4軒の映画館があった。その4軒の映画館で上映されている映画のポスターが、横一列ですべて掲示してある場所があった。

 4軒とも二本立てならば、そこには8枚のポスターがならぶ。8枚のポスターの取り合わせは常に面白く、そこを通りかかればかならず僕は立ちどまり、ポスターを観察した。

 その日もそこを通りかかった僕は、8枚のポスターを観察した。日本の映画を専門に上映している映画館の、日本映画のポスターを見て僕は驚いた。2枚ならんでいるポスターのうちの1枚には、まんなかに大きく、席をゆずった僕に「お利口なのね」と言った、あの若い女性の、あの笑顔があったからだ。赤い唇のかたちが素晴らしく、歯はまっ白、そして瞳はきらきらと輝いていた。

 そうなのか、あの女性は主演女優だったのか、と僕は思った。彼女が放っていた独特なパワーに関して、納得のいく説明がついたように思った。ポスターのまんなかに、ほかのなによりも大きく出ているからには、主演女優にきまっている。出演者の名前の、いちばん最初に大きく出ている女性の名前を、僕は見た。

 聞いたことがあるような、ないような、見覚えのあるような、ないような、そのときの僕にとっては、確たるつかみどころのない名前だった。僕より年上の世代なら、この女優の名と顔を、全員が知っていると言っていい。主演作の多くを、彼らは映画館で見て、彼女に憧れたはずだ。あるひとつの時代から次の時代までの日本の大衆文化のなかで、彼女だけが立つことの出来るアイコンの位置を、彼女は獲得している。

 あずき色の小田急線の電車のなかで、この女優のただならぬパワーに偶然に触れた13歳の僕は、そのパワーに誘発された反射として、彼女に席をゆずった。その席にはとある年配の女性がすわったが、美しい主演女優の彼女は、あの笑顔で、あの声で、この僕に、そして僕だけに、至近距離から、直接に、「お利口なのね」と言ったのだ。

 いまその僕の名前が雑誌や新聞に印刷されるとき、名前の下に括弧で囲んで、(作家)とか(小説家)というふうに、肩書がつく。僕はこの肩書を、(お利口)としたい。なにしろあの女優が、あの笑顔で、あの声で、この僕に、そして僕だけに、至近距離から、直接に、「お利口なのね」と言ったのだから。

底本:『坊やはこうして作家になる』水魚書房 2000年


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●片岡義男『坊やはこうして作家になる』
(水魚書房、2000、Amazon作品ページ

 

 

 

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●片岡義男『彼女が演じた役ー原節子の戦後主演作を見て考える』
(早川書房、1994|中央公論新社、2011、kindle版


2000年 『坊やはこうして作家になる』 原節子 女優 小田急線 少年時代 映画
2015年12月31日 05:30
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