アイキャッチ画像

正解はブラック・コーヒーの色

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

 昼食のあと彼はオフィスへ戻った。午後の仕事をはじめて二時間ほど経過して、デスクの外線電話が鳴った。左腕をのばして受話器を取り、書類を見ながら耳に当てた。彼女だった。

 電話をかけてきた親しい人に対する最初の言葉として、やあ、と言うのをやめようと思いながら、 

「やあ、久しぶり」

 と彼は言った。 

「私です」
「すぐにわかるよ。元気かい」
「私は普通です。そちらは?」
「僕は会社で仕事をしている」

 なかば個室のように作った自分だけのスペースのなかで、彼はいくつもつなげたデスクによって半円に囲まれていた。 

「私はこれから水着を買います」

 電話のむこうで彼女がそう言った。 

「ぜひ買うといい」

 彼が答えた。 

「何色にすればいいか朝から考えていて、ついにわからなくなったのです。なにかヒントをください」

 彼女の声を、彼は耳をとおして体の内部に受けとめた。 

  「水着の色の相談かい」
  「なにかヒントをください」

 おなじ言葉を彼女はくりかえした。 

「僕は好みが一定している」

 彼が言った。

「はい」
「色白の美人が好きだ」
「そうなのですか」
「もの静かなタイプの。ちょうどきみのような人だ」

 電話のむこうで彼女は笑った。あっさりした感触の笑い声の背後に、街の音がかすかに重なっていた。 

「もの静かなタイプの色白の美人には、なに色の水着がいいのかしら」
「どんな状況で着る水着かによって、色もデザインも異なってくるはずだね」
「私らしい色です」
「状況は考えなくてもいいのかい」
「もっとも基本的に私の色。それはどんな色だろうかと考えていたら、わからなくなったの」
「そのような色なら、ひとつしかない」
「そしてそれは、何色ですか」
「さっき僕はコーヒーを飲んだ」

 という彼の言葉に、彼女はきれいに鋭く反応した。 

「わかりました」

 彼女は言った。

 彼は彼女の言葉の続きを待った。

「ブラック・コーヒーの色ですね」

 彼女が結論を出した。

「濁りのない、きれいなブラック・コーヒーの色」

 と彼はつけ加えた。

「それしかないわね」
「おいしそうなコーヒーの色」

 彼の言いかたに彼女は笑った。

「デザインはきわめてシンプルに」

 彼が念を押した。

「捜してみます」
「せっかくだから、今日の夕方、会おうよ」

 時間は取ることが出来る、と彼女は言った。待ち合わせの場所と時間を、ふたりはきめた。電話はそこで終わった。

 しばらくして、彼はホテルに電話をかけた。彼女との待ち合わせの場所から、歩いて十二、三分のところにあるホテルだった。部屋をひとつ、彼は予約した。そして夕方まで仕事をした。

 定時まえに彼はオフィスを出た。出るまえに機材部という部門へいき、カメラを一台借りた。50ミリのレンズのついた一眼レフだった。

 部屋を予約したホテルへいった。チェック・インしてキーを受け取り、ショッピング・アーケードのなかにある写真機材店でフィルムを一本だけ買った。適当な高さの感度の、プリント用のカラー・フィルムだった。借りてきたカメラに彼はフィルムを装塡した。

 彼女との約束の時間までに、まだ二十分以上あった。ホテルから待ち合わせの店まで、彼はゆっくり歩いた。時間まえに店に到着し、すっかりくつろいだ気持ちで彼女を待った。

 時間どおりに彼女はあらわれた。秋は深まりつつあるけれど、まだ寒くはない、という季節にふさわしい、きれいな服を着ていた。気になることも心配ごとも、いっさいなにもない人の表情と身のこなしで、彼女は彼の待つテーブルまで歩いてきた。そして彼とさしむかいにすわった。ショッピング・バッグをフロアに降ろした。 

「久しぶりだね」

 平凡に、彼が言った。 

「電話でもそうおっしゃってたわ」
「そしていまも言っている」
「しばらくだわ」
「夏のまえに会ったね。まだ梅雨の雨が降っていた頃」
「あのとき以来かしら」
「そうだよ」
「いまはもう秋よ」
「夏はどこへいったのだろう」
「時間がたつのは早いわ」
「早いね。今日だって、もう残りすくない。独身の今日も過ぎゆく」
「おたがいに」
「水着は?」
「見つけました。だから買いました」

 ほどなくふたりは店を出た。この時間にこんな雰囲気で会えば、そのあとは確認しあわなくてもともにタ食だ。彼はホテルにむかって歩いた。彼女が肩をならべた。

 側面の入口からホテルの建物に入り、ロビーを経由せずにエレヴェーター・ホールへ出た。そしてエレヴェーターに乗った。七階のボタンを彼は押した。高原にある叔父の別荘で夏を過ごしたときのことについて、彼女は熱心に語っていた。叔父が買い替えた天体望遠鏡で、生まれてはじめて土星の環を見たスリルを、彼女は彼に伝えようとしていた。

 きわめて滑らかにエレヴェーターが停止した。ドアが静かに開いてはじめて、エレヴェーターは止まっているのだとわかった。七階だった。彼が彼女を促し、ふたりはエレヴェーターを出た。

 エレヴェーター・ホールから廊下に出た。客室が両側にならぶ廊下を、ふたりは奥にむけて歩いた。そして彼女は立ちどまった。自分だけさらに二、三歩だけ歩いて、彼も足をとめた。彼女をふりかえった。 

「私たちはどこへいこうとしているのかしら」

 彼女が言った。

「部屋」

 と彼が答えた。 

「お店があるのだとばかり思ってたわ」
「僕が借りた部屋」

 その言葉の意味を、彼女は考えた。そして、優しい笑顔に唇だけを引き締めて、顔を左右に振った。 

「あなたは、ある日いきなり、そんなことをする人なの?」

 彼女の言葉に、こんどは彼が首を振った。

「水着を着て見せてほしい。ただそれだけだ。それ以上でも、それ以下でもない。そのための部屋だよ」
「私はいま呆れています」
「しかし、顔には出ないね」
「出さないようにしています」
「僕には責任がある」

 彼女から二、三歩の距離を保ったまま、彼が言った。 

「なにの責任かしら」
「きみが買った水着をこの目で見て、評価し、正しい判断を下しておく責任だ」
「そんな──」
「色を指定したのは、この僕だから」
「夕食のお店へ連れていってくださるのかと思ってました」
「夕食はいっしょに食べるよ。そのまえに、水着の鑑定だ」
「私はお腹が空いています」
「僕もだ。でも、水着姿になるには、お腹が空いていたほうが有利かもしれない」

 エレヴェーター・ホールからふたりにむけて、ヨーロッパ人の年配の夫婦が、ほかに人のいない廊下を手を取りあって歩いて来た。廊下のかたわらへ位置を変えた彼女に、夫婦は微笑した。そしておなじくわきへ寄った彼にも、夫婦は微笑した。彼が微笑を返し、彼女は困ったような顔をしていた。 

「鑑定して、僕は写真を撮る」

 そう言って彼は肩にかけているカメラを示した。 

「なぜ、写真なの?」
「今後の参考のために」
「困ったわ」
「とにかく早く部屋に入ろう。ほら、また人が来るよ」

 彼女は廊下をふりかえった。ふたたびヨーロッパ人の夫婦が、ふたりにむけて歩いて来ていた。さきほどの夫婦よりも少し若かった。 

「さあ、いこう」

 彼が促した。 

「ちょっと待ってください」

 ヨーロッパ人の夫婦は彼女のかたわらを通過した。美しく魅力的な日本女性である彼女を、夫婦は視線で賞味し、賞味したその対象を心から肯定する笑顔となった。夫婦は彼のかたわらをゆっくりと歩いていった。妻のほうは意味をこめて彼に笑顔をむけ、赤い顔をした夫は彼にウインクしてみせた。歩み去る夫婦を彼と彼女は見送った。

「人どおりが多いね」

 彼が言った。 

「そのようですね」
「水着の色はどうだったのか、僕は気にかかる。きみから電話があったときから夕方まで、仕事をしているあいだずっと、僕は気になっていた」
「素晴らしい色のを見つけました」
「ぜひ見せてほしい」
「水着だけ見せます」
「まさか。きみほどの人が」

 彼女は彼に歩み寄った。彼は片手をさしのべた。指先には部屋のキーがあった。そのキーを彼女は受け取った。ふたりは廊下を奥へ歩いていった。

 部屋のドアのまえにふたりは立ちどまった。彼女がキーをさしこみ、ドアのロックを解除した。ふたりは部屋に入った。ベッドがふたつならんでいる。端整に落ち着いた部屋だった。彼女はキーを彼に返した。彼はそれをジャケットのポケットに落とした。彼女は部屋を見渡した。そして顔を彼にむけなおし、

「着替えをします」

 と言った。彼が彼女からすでに勝ち得ている信頼、そして彼女が自分のものとして持っている育ちの良さが、いまの彼女にその台詞を言わせた。 

「僕は浴室に入っていようか」

 彼が提案した。彼女は考えた。 

「そうね」
「あわてないで、ゆっくり。着替えたなら、浴室のドアをノックしてくれればいい。そしたら僕は、気合を整えて出てくる」

 彼の言いかたに彼女は笑顔になった。 

「着替えのまえに、化粧を直すのかな」

 彼がきいた。 

「いいえ」
「髪は?」
「このまま」
「お風呂は?」

 彼の冗談に彼女は涼しく笑った。彼は浴室へ歩き、明かりをつけてなかに入った。ドアを閉じた。

 彼女はショッピング・バッグのなかから紙包みを取り出した。包みを開き、水着を出した。両手に持ち、目のまえに広げてかかげた。そしてそれをベッドの上に置いた。

 ショッピング・バッグのなかから箱も取り出した。靴の箱だった。なかからサンダルが出て来た。きれいな華やぎのある、細いヒールのサンダルだった。それを彼女は足もとに置いた。そして服を脱いだ。

 水着に着替えた。ハイヒール・サンダルをはいた。浴室のドアの斜めまえの壁に、姿見が大きく取り付けてあった。そのまえへ歩き、彼女は鏡のなかに自分を見た。水着姿の自分を彼女は点検した。

 そしてふりかえり、浴室のドアを見た。部屋のなかは静かだった。浴室からはなんの音も聞こえてこなかった。ドアにむけて大股に三歩、彼女は歩いた。右腕をまっすぐにのばし、ドアを軽くノックした。鏡のまえまで、彼女は後退した。

 浴室のドアが開いた。彼が外へ出て来た。彼女を見た。彼は右手を胸に当てた。そして、

「ああ、よかった」

 と言った。水着姿の彼女ぜんたいが、彼の視線のなかにあった。

「僕はまちがっていなかった。素晴らしい。よく似合う。ブラック・コーヒーの色は、正解だった」

 彼はひとり用の肘かけ椅子まで歩いた。その椅子にすわり、やや低い位置から彼女を観察した。 

「きみの水着姿を僕ははじめて見る。これほどだとは思っていなかった。そこが僕のうかつなところだ」

 本気を冗談のように、彼はひとりで喋った。 

「歩いてみてくれ。ドアまで。そして、こちらにむけて引き返す」

 彼が言ったとおりに、彼女は歩いた。椅子にすわっている彼のすぐまえまで来て、彼女は立ちどまった。 

「鏡のまえあたりで、なにかポーズを取ってみてほしい」

 鏡のまえまで彼女は歩いた。そして鋭く彼をふりかえり、空手の構えをしてみせた。彼女は空手の段位を持っている。

 立ちあがった彼はべッドへ歩いた。カメラを手に取り、ふたつのべッドのあいだへ入った。ベッドの足もとにしゃがんだ彼は、鏡と斜めにむきあって立っている彼女を、カメラのファインダーごしに見た。縦位置の画面に彼女の全身がきれいにおさまっていた。三度、彼はシャッター・ボタンを押した。

「正解が出てよかった」

 彼はカメラをべッドの上に置いた。そのかたわらには、彼女が脱いで端整に重ねた服のすべてがあった。 

「夕食にしよう。僕はまた浴室にこもるから、着替えをしてください」

 彼は浴室へ歩いた。ドアを開いてなかに入り、ドアを閉じた。彼女は水着を脱ぎ、服を着なおした。水着とサンダルをショッピング・バッグにおさめた。滑らかに、手ぎわ良く、短い時間のなかで彼女はすべてを終えた。鏡のまえに立ち、自分の様子を点検した。そして浴室のドアに歩み寄り、ノックをした。

 すぐにふたりは部屋を出た。 

「ついでだから僕は今夜はひとりでここに泊まってみる」

 と彼は言った。だからカメラは、ベッドに置いたままだった。静かな部屋にふたつならんでいるべッドの片方に、そのカメラは斜めになって置いてあった。カメラのなかにはフィルムがあり、そのフィルムの最初の三齣には、まだ現像されていない乳剤のなかに、水着姿の魅力的な彼女があった。

『ノートブックに誘惑された』角川文庫 1992年所収
底本:片岡義男エッセイ・コレクション『「彼女」はグッド・デザイン』太田出版 1996年

今日の1冊

%e8%a1%a8%e7%b4%99%ef%bc%bf%e3%83%9b%e3%83%86%e3%83%ab%e3%83%bb%e3%83%ab%e3%83%bc%e3%83%a0
日本列島は、台風の通り道だ。
空模様が暗くなり、雨が、風が激しくなり、やがて猛烈な勢いを周囲に振りまいて、ある時ふっと抜けてく。
ホテル・ルーム|片岡義男

関連エッセイ

9月24日|悲しき雨音


9月22日|ふたりで語り合う物語。記憶のなかの、過ぎ去った夏。ー(1)


8月7日|避暑地


9月19日|ショート・ショート


2月13日|四季のひとめぐり


8月23日 |あの夏の女たち


11月4日|深まりゆく秋です


1992年 1996年 「彼女」はグッド・デザイン エッセイ・コレクション オフィス カメラ カラー・フィルム コーヒー サンダル ショッピング・アーケード チェック・イン テーブル ノートブックに誘惑された ブラック・コーヒーの色 ベッド ホテル 一眼レフ 仕事 会社 写真 写真機材店 午後 叔父 夕方 夕食 夫婦 彼女 日本女性 水着 浴室 片岡義男エッセイ・コレクション 空手 美人 色白の美人 部屋 電話
2016年9月25日 05:30
サポータ募集中