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正解はブラック・コーヒーの色

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 昼食のあと彼はオフィスへ戻った。午後の仕事をはじめて二時間ほど経過して、デスクの外線電話が鳴った。左腕をのばして受話器を取り、書類を見ながら耳に当てた。彼女だった。

 電話をかけてきた親しい人に対する最初の言葉として、やあ、と言うのをやめようと思いながら、 

「やあ、久しぶり」

 と彼は言った。 

「私です」
「すぐにわかるよ。元気かい」
「私は普通です。そちらは?」
「僕は会社で仕事をしている」

 なかば個室のように作った自分だけのスペースのなかで、彼はいくつもつなげたデスクによって半円に囲まれていた。 

「私はこれから水着を買います」

 電話のむこうで彼女がそう言った。 

「ぜひ買うといい」

 彼が答えた。 

「何色にすればいいか朝から考えていて、ついにわからなくなったのです。なにかヒントをください」

 彼女の声を、彼は耳をとおして体の内部に受けとめた。 

  「水着の色の相談かい」
  「なにかヒントをください」

 おなじ言葉を彼女はくりかえした。 

「僕は好みが一定している」

 彼が言った。

「はい」
「色白の美人が好きだ」
「そうなのですか」
「もの静かなタイプの。ちょうどきみのような人だ」

 電話のむこうで彼女は笑った。あっさりした感触の笑い声の背後に、街の音がかすかに重なっていた。 

「もの静かなタイプの色白の美人には、なに色の水着がいいのかしら」
「どんな状況で着る水着かによって、色もデザインも異なってくるはずだね」
「私らしい色です」
「状況は考えなくてもいいのかい」
「もっとも基本的に私の色。それはどんな色だろうかと考えていたら、わからなくなったの」
「そのような色なら、ひとつしかない」
「そしてそれは、何色ですか」
「さっき僕はコーヒーを飲んだ」

 という彼の言葉に、彼女はきれいに鋭く反応した。 

「わかりました」

 彼女は言った。

 彼は彼女の言葉の続きを待った。

「ブラック・コーヒーの色ですね」

 彼女が結論を出した。

「濁りのない、きれいなブラック・コーヒーの色」

 と彼はつけ加えた。

「それしかないわね」
「おいしそうなコーヒーの色」

 彼の言いかたに彼女は笑った。

「デザインはきわめてシンプルに」

 彼が念を押した。

「捜してみます」
「せっかくだから、今日の夕方、会おうよ」

 時間は取ることが出来る、と彼女は言った。待ち合わせの場所と時間を、ふたりはきめた。電話はそこで終わった。

 しばらくして、彼はホテルに電話をかけた。彼女との待ち合わせの場所から、歩いて十二、三分のところにあるホテルだった。部屋をひとつ、彼は予約した。そして夕方まで仕事をした。

 定時まえに彼はオフィスを出た。出るまえに機材部という部門へいき、カメラを一台借りた。50ミリのレンズのついた一眼レフだった。

 部屋を予約したホテルへいった。チェック・インしてキーを受け取り、ショッピング・アーケードのなかにある写真機材店でフィルムを一本だけ買った。適当な高さの感度の、プリント用のカラー・フィルムだった。借りてきたカメラに彼はフィルムを装塡した。

 彼女との約束の時間までに、まだ二十分以上あった。ホテルから待ち合わせの店まで、彼はゆっくり歩いた。時間まえに店に到着し、すっかりくつろいだ気持ちで彼女を待った。

 時間どおりに彼女はあらわれた。秋は深まりつつあるけれど、まだ寒くはない、という季節にふさわしい、きれいな服を着ていた。気になることも心配ごとも、いっさいなにもない人の表情と身のこなしで、彼女は彼の待つテーブルまで歩いてきた。そして彼とさしむかいにすわった。ショッピング・バッグをフロアに降ろした。 

「久しぶりだね」

 平凡に、彼が言った。 

「電話でもそうおっしゃってたわ」
「そしていまも言っている」
「しばらくだわ」
「夏のまえに会ったね。まだ梅雨の雨が降っていた頃」
「あのとき以来かしら」
「そうだよ」
「いまはもう秋よ」
「夏はどこへいったのだろう」
「時間がたつのは早いわ」
「早いね。今日だって、もう残りすくない。独身の今日も過ぎゆく」
「おたがいに」
「水着は?」
「見つけました。だから買いました」

 ほどなくふたりは店を出た。この時間にこんな雰囲気で会えば、そのあとは確認しあわなくてもともにタ食だ。彼はホテルにむかって歩いた。彼女が肩をならべた。

 側面の入口からホテルの建物に入り、ロビーを経由せずにエレヴェーター・ホールへ出た。そしてエレヴェーターに乗った。七階のボタンを彼は押した。高原にある叔父の別荘で夏を過ごしたときのことについて、彼女は熱心に語っていた。叔父が買い替えた天体望遠鏡で、生まれてはじめて土星の環を見たスリルを、彼女は彼に伝えようとしていた。

 きわめて滑らかにエレヴェーターが停止した。ドアが静かに開いてはじめて、エレヴェーターは止まっているのだとわかった。七階だった。彼が彼女を促し、ふたりはエレヴェーターを出た。

 エレヴェーター・ホールから廊下に出た。客室が両側にならぶ廊下を、ふたりは奥にむけて歩いた。そして彼女は立ちどまった。自分だけさらに二、三歩だけ歩いて、彼も足をとめた。彼女をふりかえった。 

「私たちはどこへいこうとしているのかしら」

 彼女が言った。

「部屋」

 と彼が答えた。 

「お店があるのだとばかり思ってたわ」
「僕が借りた部屋」

 その言葉の意味を、彼女は考えた。そして、優しい笑顔に唇だけを引き締めて、顔を左右に振った。 

「あなたは、ある日いきなり、そんなことをする人なの?」

 彼女の言葉に、こんどは彼が首を振った。

「水着を着て見せてほしい。ただそれだけだ。それ以上でも、それ以下でもない。そのための部屋だよ」
「私はいま呆れています」
「しかし、顔には出ないね」
「出さないようにしています」
「僕には責任がある」

 彼女から二、三歩の距離を保ったまま、彼が言った。 

「なにの責任かしら」
「きみが買った水着をこの目で見て、評価し、正しい判断を下しておく責任だ」
「そんな──」
「色を指定したのは、この僕だから」
「夕食のお店へ連れていってくださるのかと思ってました」
「夕食はいっしょに食べるよ。そのまえに、水着の鑑定だ」
「私はお腹が空いています」
「僕もだ。でも、水着姿になるには、お腹が空いていたほうが有利かもしれない」

 エレヴェーター・ホールからふたりにむけて、ヨーロッパ人の年配の夫婦が、ほかに人のいない廊下を手を取りあって歩いて来た。廊下のかたわらへ位置を変えた彼女に、夫婦は微笑した。そしておなじくわきへ寄った彼にも、夫婦は微笑した。彼が微笑を返し、彼女は困ったような顔をしていた。 

「鑑定して、僕は写真を撮る」

 そう言って彼は肩にかけているカメラを示した。 

「なぜ、写真なの?」
「今後の参考のために」
「困ったわ」
「とにかく早く部屋に入ろう。ほら、また人が来るよ」

 彼女は廊下をふりかえった。ふたたびヨーロッパ人の夫婦が、ふたりにむけて歩いて来ていた。さきほどの夫婦よりも少し若かった。 

「さあ、いこう」

 彼が促した。 

「ちょっと待ってください」

 ヨーロッパ人の夫婦は彼女のかたわらを通過した。美しく魅力的な日本女性である彼女を、夫婦は視線で賞味し、賞味したその対象を心から肯定する笑顔となった。夫婦は彼のかたわらをゆっくりと歩いていった。妻のほうは意味をこめて彼に笑顔をむけ、赤い顔をした夫は彼にウインクしてみせた。歩み去る夫婦を彼と彼女は見送った。

「人どおりが多いね」

 彼が言った。 

「そのようですね」
「水着の色はどうだったのか、僕は気にかかる。きみから電話があったときから夕方まで、仕事をしているあいだずっと、僕は気になっていた」
「素晴らしい色のを見つけました」
「ぜひ見せてほしい」
「水着だけ見せます」
「まさか。きみほどの人が」

 彼女は彼に歩み寄った。彼は片手をさしのべた。指先には部屋のキーがあった。そのキーを彼女は受け取った。ふたりは廊下を奥へ歩いていった。

 部屋のドアのまえにふたりは立ちどまった。彼女がキーをさしこみ、ドアのロックを解除した。ふたりは部屋に入った。ベッドがふたつならんでいる。端整に落ち着いた部屋だった。彼女はキーを彼に返した。彼はそれをジャケットのポケットに落とした。彼女は部屋を見渡した。そして顔を彼にむけなおし、

「着替えをします」

 と言った。彼が彼女からすでに勝ち得ている信頼、そして彼女が自分のものとして持っている育ちの良さが、いまの彼女にその台詞を言わせた。 

「僕は浴室に入っていようか」

 彼が提案した。彼女は考えた。 

「そうね」
「あわてないで、ゆっくり。着替えたなら、浴室のドアをノックしてくれればいい。そしたら僕は、気合を整えて出てくる」

 彼の言いかたに彼女は笑顔になった。 

「着替えのまえに、化粧を直すのかな」

 彼がきいた。 

「いいえ」
「髪は?」
「このまま」
「お風呂は?」

 彼の冗談に彼女は涼しく笑った。彼は浴室へ歩き、明かりをつけてなかに入った。ドアを閉じた。

 彼女はショッピング・バッグのなかから紙包みを取り出した。包みを開き、水着を出した。両手に持ち、目のまえに広げてかかげた。そしてそれをベッドの上に置いた。

 ショッピング・バッグのなかから箱も取り出した。靴の箱だった。なかからサンダルが出て来た。きれいな華やぎのある、細いヒールのサンダルだった。それを彼女は足もとに置いた。そして服を脱いだ。

 水着に着替えた。ハイヒール・サンダルをはいた。浴室のドアの斜めまえの壁に、姿見が大きく取り付けてあった。そのまえへ歩き、彼女は鏡のなかに自分を見た。水着姿の自分を彼女は点検した。

 そしてふりかえり、浴室のドアを見た。部屋のなかは静かだった。浴室からはなんの音も聞こえてこなかった。ドアにむけて大股に三歩、彼女は歩いた。右腕をまっすぐにのばし、ドアを軽くノックした。鏡のまえまで、彼女は後退した。

 浴室のドアが開いた。彼が外へ出て来た。彼女を見た。彼は右手を胸に当てた。そして、

「ああ、よかった」

 と言った。水着姿の彼女ぜんたいが、彼の視線のなかにあった。

「僕はまちがっていなかった。素晴らしい。よく似合う。ブラック・コーヒーの色は、正解だった」

 彼はひとり用の肘かけ椅子まで歩いた。その椅子にすわり、やや低い位置から彼女を観察した。 

「きみの水着姿を僕ははじめて見る。これほどだとは思っていなかった。そこが僕のうかつなところだ」

 本気を冗談のように、彼はひとりで喋った。 

「歩いてみてくれ。ドアまで。そして、こちらにむけて引き返す」

 彼が言ったとおりに、彼女は歩いた。椅子にすわっている彼のすぐまえまで来て、彼女は立ちどまった。 

「鏡のまえあたりで、なにかポーズを取ってみてほしい」

 鏡のまえまで彼女は歩いた。そして鋭く彼をふりかえり、空手の構えをしてみせた。彼女は空手の段位を持っている。

 立ちあがった彼はべッドへ歩いた。カメラを手に取り、ふたつのべッドのあいだへ入った。ベッドの足もとにしゃがんだ彼は、鏡と斜めにむきあって立っている彼女を、カメラのファインダーごしに見た。縦位置の画面に彼女の全身がきれいにおさまっていた。三度、彼はシャッター・ボタンを押した。

「正解が出てよかった」

 彼はカメラをべッドの上に置いた。そのかたわらには、彼女が脱いで端整に重ねた服のすべてがあった。 

「夕食にしよう。僕はまた浴室にこもるから、着替えをしてください」

 彼は浴室へ歩いた。ドアを開いてなかに入り、ドアを閉じた。彼女は水着を脱ぎ、服を着なおした。水着とサンダルをショッピング・バッグにおさめた。滑らかに、手ぎわ良く、短い時間のなかで彼女はすべてを終えた。鏡のまえに立ち、自分の様子を点検した。そして浴室のドアに歩み寄り、ノックをした。

 すぐにふたりは部屋を出た。 

「ついでだから僕は今夜はひとりでここに泊まってみる」

 と彼は言った。だからカメラは、ベッドに置いたままだった。静かな部屋にふたつならんでいるべッドの片方に、そのカメラは斜めになって置いてあった。カメラのなかにはフィルムがあり、そのフィルムの最初の三齣には、まだ現像されていない乳剤のなかに、水着姿の魅力的な彼女があった。

『ノートブックに誘惑された』角川文庫 1992年所収
底本:片岡義男エッセイ・コレクション『「彼女」はグッド・デザイン』太田出版 1996年

今日の1冊

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日本列島は、台風の通り道だ。
空模様が暗くなり、雨が、風が激しくなり、やがて猛烈な勢いを周囲に振りまいて、ある時ふっと抜けてく。
ホテル・ルーム|片岡義男

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1992年 1996年 『ノートブックに誘惑された』 エッセイ・コレクション コーヒー ホテル 彼女 水着 片岡義男エッセイ・コレクション『「彼女」はグッド・デザイン』 美人 部屋
2016年9月25日 05:30
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