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春まだ浅く、三冊の本を買った夕方

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 今年の春がまだ浅かった頃、平日の夕方、僕はその大きな書店に三階から入った。奥のエスカレーターでいつものように六階へ上がった。六階の三分の一ほどが洋書売り場だ。洋書売り場の客になると、そのとたん、やや誇張して言うなら、僕は別世界の人だ。いまの日本の現実は、少なくとも棚や平台にならんでいる書籍のなかには、まったくないからだ。友人たちとの夕食の待ち合わせまでに、少しだけ時間があった。一冊でもいいからなにか買うことが出来れば、という気持ちで僕はその書店に寄ってみた。

 洋書売り場ぜんたいを見ていくなら、かなりおおざっぱな視線でも、二時間はかかるだろう。その日の僕は英語の小説の新刊だけを観察したので、所要時間は三十分ちょっとだった。新刊が平台に何列にも並んでいた。何冊もの新刊どうしのあいだに、脈絡や連関はなにもない。一冊ずつ単独に存在している新刊が、ずらっと何冊もつらなっている様子は、それだけでどこか刺激的だ。気になるものを一冊ずつ手に取って表紙を眺め、裏表紙に印刷してある宣伝文句を、斜めに読んでいく。作品ごとに、異なった世界の入口に、僕は立つ。不思議の国とは、一例として、このようなときのこのような場所ではないか。

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 一冊でいいからなにかあれば、と僕は思っていたのだが、会計のカウンターの前に立ったときには、三冊のトレード・ペイパーバックを持っていた。写真にある三冊だ。これは買おう、ぜひ読みたい、と最初に判断したのは、『銀行強盗たちにとって高度に有効な四十七のルール』という小説だった。これ一冊で充分だ、と僕は思った。一冊だけ買うのもなかなか悪くない。しかしまだ時間があったので、新刊をさらに観察していったら、『少年のジム』という作品が僕の気持ちをとらえた。大不況の時代のアメリカで、北カロライナ州に育つひとりの少年を描いた物語だという。こういうのに僕はいちころでひっかかる。したがってこれも買うことにした。

 二冊買うなら、もう一冊加えて三冊にしたほうがいい、と僕は思った。三冊の本を買う、という趣味ないしは娯楽を、僕は何年も前から楽しんできたからだ。新刊あるいは古本を問わず、一軒の書店に入ったなら、おたがいになんの脈絡もない三冊の、しかしそれぞれに面白そうな本を見つけて購入する、という趣味あるいは娯楽だ。取り合わせの妙などまったくない三冊だが、自分が買うものとして書棚から見つけて自分の手に持つと、関連のない三冊が、僕という人を介して、くっきりとした関連のなかに、それぞれが位置を見い出してそこに納まってしまう。その様子を受けとめる楽しみは、何度繰り返しても、飽きることはない。

 問題の三冊目もすぐに手に取った。『翼のある生き物たち』という題名の小説だ。小さな町の軽食堂のなかで起きた、拳銃の無差別乱射に巻き込まれた何人かの人たちの、その後を描いた物語だということは裏表紙に印刷してある文章を読んですぐにわかった。しかしそれ以前に、表紙買いの判断を僕は下していたと思う。物語の内容を推測することは出来ない題名だが表紙に使ってある写真は、僕の気持ちをかなりのところまでとらえた。なんらかの理由によって気持ちをとらえられたなら、そのときはすでに、読者としてその物語のなかに入っているというのが、かねてより僕が唱えてきた説だ。

 買うべき三冊を手にして僕は会計のカウンターの前に立ち、支払いをすませ、三冊を紙袋に入れてもらい、六階からエスカレーターで三階へと降りた。日本の新刊小説やノン・フィクションの売り場を抜けて、ドアから外へ出た。ボードウォークを歩いて連絡陸橋へと戻っていくと、洋書売り場という別世界は僕の周囲から消え去り、それに替わって現在の日本の日常的な現実が、僕を包囲することとなった。

 片手に下げている紙袋のなかで、洋書という別世界は、三冊の小説へと凝縮されていた。重みとも言えないその重みを片方では感じつつ、もういっぽうでは日本の現実を受けとめながら、何本もの鉄道線路を越える連絡陸橋を、僕は西側へと渡っていった。僕はいまいったいなにをしているのだろうか、と僕は自分に問いかけた。答えはなかった。三冊の小説を読み終えてもなお、答えはないだろう、とも僕は思った。買ってからふた月ほどあと、四月のある日、三冊のなかの一冊を読もう、と僕は思った。三冊のなかから一冊を選ばなくてはいけない。選ばないままに、三冊を同時に、交互に少しずつ読んでいき、三冊をほぼ同時に読み終える、という読みかたをこれまでに何度か僕は試みている。今回もそうしようかと思ったが、読み始めたのは『翼のある生き物たち』だった。

 ミシガン州のデトロイトとイプシランテとの中間のどこかに設定されている小さな町の、カービーズ・レストランという食堂で、ひとりの男性による拳銃の無差別乱射が、すでに終わっている時間から、この小説は始まっている。乱射した男は店内でふたりの成人男性を射殺し、自分をも射って死亡した。救急病棟では射たれたふたりの男性の死亡が確認され、レストランは警察の車両やTV局の中継車などで囲まれている。遠まきに人だかりが出来ていて、上空にはヘリコプターが旋回している。

 射った男が自殺してしまった無差別乱射という、説明のしようもなければ解決も出来っこない出来事のすぐあとには、直接あるいは間接の関係当事者が、何人か残される。その何人かの人たちの、事件直後からの時間を、著者はひとりずつ交互に短く描いては、それらを重ねていく。線型にしか時間の進行しない小説のなかで、大きな衝撃のあとに残された何人かの人たちを、多視点で同時に描こうとすると、こうするしかない。解決のありようもない難問を、消しがたいものとして背負った人たちのそれからの時間のなかに、いったいなにがあり得るのか。

 いまちょうど半分まで読んだところだ。描かれていく人たちの、それぞれの状況はほぼ固定された。そして物語はその後半へと入っていく。ロイ・フライリッチという作者の、これは処女作だという。後半をどうするのか、つまり物語の着地点がどんなところになるのか、サスペンスは高まる。

出典:『Free&Easy』2009年6月号


『Free&Easy』 本を読め
2018年4月4日 00:00
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