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「ニッケル・アンド・ダイムド」

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 題名のなかにある「ニッケル・アンド・ダイム」という言葉は、文字どおりには五セントそして十セントの硬貨のことだが、通常は意味がもう少し広く、小銭、はしたがね、といった意味だ。これが動詞として使われていて、なおかつここでの意味としては受動態だから、「小銭であしらわれて」「小銭でこき使われて」というような意味の題名となる。

 そして副題は、主として経済的な意味で、どうにかこうにかやっていく、という意味のゲット・バイが名詞化され、それがノットで否定されているから、副題ぜんたいとしては、「どうにもこうにもやっていけないアメリカでの生活」という意味だ。

 アメリカでの最低賃金は、いま時給で四ドル五十セントくらいだろうか。最高にもらったとして、十二ドルいくかいかないか、というところだ。時給四ドル五十から十二ドルほどのあいだに、いまのアメリカにおける最低賃金による生活がある。エコノミック・ポリシー・インスティテュートという機関が発表した数字によると、大人ひとり子供ふたりの家庭が「なんとか暮らしていける賃金」は、年間で三万ドル、時給になおすと十四ドルだという。そしていまアメリカで働いている人たちのうち、時給十四ドル以下の生活をしている人たちの割合は、六十パーセントにもおよぶという数字もある。

 とても満足には暮らしていけない現在のアメリカの最低賃金生活を、ノン・フィクションのすぐれた書き手として評価の高いバーバラ・エイレンライキが、身をもって体験したこのノン・フィクションは、二〇〇一年に発表されてベスト・セラーになった。写真にあるペーパーバックになったのが二〇〇二年で、そこからさらに四年遅れのいま、僕は読んでみた。

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 自分のいまの仕事や社会的な位置、さらには学歴や著作家としての蓄積など、本当の自分はいっさい伏せて、ただのひとりの中年白人女性として、熟練や専門知識、技術など、いっさい必要としない最低賃金生活に入ってみると、いったいどんなことになるかを、彼女はこの本で報告している。街の食堂のウエイトレス。認知症の人たちを収容している施設の食堂係。裕福な人たちの自宅を掃除するメイド・サーヴィス。アメリカでもっとも多くの人を雇用しているという、巨大小売りチェーン店の店頭接客販売員。悲惨な状況のレポートだが、奇妙に軽く読めた。声高になにごとかを主張したり訴えたりする内容ではないが、アメリカにおける最低賃金生活の現状は、緊急事態のレヴェルにとっくに到達しているという彼女の結論には、僕も同意しないわけにはいかない。

 アメリカの中産階級が経済的に崩壊し、彼らを支えてきた社会基盤の底が急速に抜けつつあるという状況を、アメリカのTVニュースが報道し始めた時期はいつだったか。そのときからまだ二十年は経過していない。いまから十数年前のことか。「職を失って再就職が出来ないままに、家を売却して家庭は崩壊し、いまは自分ひとりで時給五ドルの生活へと落ちてしまった。時給五ドルだと家には住めないよ、粗末なアパートでも無理。だから車のなかに寝泊まりしてるけど、車が壊れて自分で修理出来なかったら、路上生活あるいはシェルターに入るしかない。ガソリンだって慎重に買ってるよ」と、車を指さしながらTVカメラに向けて、中年の白人男性が語っていたのを、いまでも僕は覚えている。

 一時的な不景気で失業者が増える、というようなことではなく、社会の質が根本的に変わりつつある事実の、ひとつの端的なあらわれが、中流階級の崩壊だった。中流階級の物質的な豊かさは、アメリカの繁栄の象徴だったではないか。一九五十年代には、ごく普通の家庭に自動車が二台あり、広い庭には手入れされた芝生が緑で、どこか湖のほとりには別荘を持ち、なんの心配もなく生活を楽しんでいた人たちの国が、アメリカだったのに。ジャーナリストをしているアメリカの友人とこんな話をしていたら、「当時のアメリカは工場労働者の国だったからね」と、その友人は言ったものだ。

 単純労働の繰り返しのなかでさまざまな物を生産する、という仕事を多くの人たちがこなしていた。生産される物もそれにかかわる技術も、当時はそれが世界で最高水準のものだったから、世界の頂点はそこにあり、その結果として多くの工場労働者たち、つまりごく普通の人たちが、豊かな日常生活を謳歌することが出来た。

 どこへとも知れないどこかへ向けて、現場の資本主義は突進を続けていく。その速度がもっとも速いのはアメリカにおいてであり、したがって突進と比例して、それまではどこにもなかった未曾有の事態が、社会ぜんたいのものとして現出していく。普通の人が職を失うと、失う以前とおなじような職はもう二度と手に入らない、というような事態だ。その反面、新たに立ち上がって盛んな好調を維持する産業はかならずあり、ぜんたいとして経済は好況になったりもするが、失職や失業の回復はそこにはなく、ジョブレス・リカヴァリー、つまり景気は上を向いても失業者はそのままであるという状態が、社会のありかたとなっていく。人手を必要とするところで人々は仕事をみつけるのだが、その仕事は時給十四ドルをはるかに下まわり、しかもそのような人たちが、全就労人口の六十パーセントを占める、というような事態になっていく。

 産業や経済のここが駄目、そこがいけない、という次元の問題ではなく、資本主義ぜんたいの問題なのだから、国家が出動しなくてはいけない。緊急避難的な救済はもちろん、恒常的となるはずの支援や援助、補助などを、国家的なプロジェクトとして多面的に展開しないかぎりどうにもならないのだが、現実にアメリカで進行しているのは、小さな政府、つまり弱者の切り捨てだ。切り捨てとは、制度としてそのような人たちは存在しないということだから、切り捨てられた人たちは見えない存在となる。『ニッケル・アンド・ダイムド』を書いたバーバラ・エイレンライキは、このような見えない人たちのひとりとなってみることをとおして、見えない人たちの生きるつらい現実をかいま見た、ということだろう。

 日本ではバブルが崩壊した十五年前、一億総中流という社会は消滅したが、林立する企業が衝撃を吸収する緩衝地帯の役割を果たしたようだ。バブルが崩壊して経済状況が悪化しても、日本の企業は少なくとも主たる傾向としては、大量解雇も賃下げもせず、失われた十年を耐えた。日本もアメリカとおなじような資本主義だと言われているが、企業が衝撃を吸収する機能を果たすかぎりにおいては、突進していく資本主義のその突進ぶりの、社会における機能のしかたやあらわれかたは、アメリカとはかなり違うように思える。

 小さな政府というものが日本でも盛んに提唱されている。負担増という、切り捨てのヴァリエーションのひとつから、切り捨てが開始されている。たちまちのうちに効いてくるこのボディ・ブローの衝撃を、企業が吸収することが可能だとはとても思えない。衝撃をこれからは吸収せず、必要ないものは必要ないというかたちで、回避するのではないか。

出典:『Free&Easy』2006年6月号

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2018年1月19日 00:00
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