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引っ越しという自己点検

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 いろんな視点から自分を点検し考察しなおすための、たいへんな好機のひとつは引っ越しではないか。六年前におこなった引っ越しは、僕にとっては確実にそのとおりの機会だった。そのとき点検し考察しなおした自分というものは、それ以後なんら揺らいでも薄らいでもいない。

 二十五年ほど住んだ家から、足早に歩いて五分ほどの新しい家に引っ越した。人はただ歩いて五分だが、持ち物はすべて引っ越し用の荷物にして、トラックに載せなくてはいけない。家の内外に物を置いておくスペースは充分すぎるほどにあった。その家で営まれた日常生活の痕跡と言っていい、大小さまざまな物品が、普通ならありあまるほどのスペースのなかに、二十五年分というものすごい量で、ぎっしりと詰まっていた。

 その物品を手前から発掘さながらに、ひとつずつ延々と取り出しては、多くの物を捨てながらも、あとに残った物はかたっぱしから段ボール箱に詰めた。その家に住んだ二十五年は、物品の期間としての二十五年であった事実が、その作業のなかでよくわかった。しかもその物品は生活の全域におよんで次々に更新され続けた。置いておくスペースがなければ、当然のこととして途中で何度も捨てただろう。そして二十五年分の蓄積を目のあたりにして、その二十五年とはなにだったかを、身にしみて知る体験は持てなかったはずだ。

 僕ひとりに関して、その二十五年がどのような物品の期間だったかというと、買い続けた本とレコードの二十五年だった。本と雑誌そしてレコードが、まるでなにかの倉庫のように、あちらの部屋にもこちらの部屋にも、とにかく大量にあった。引っ越しは一度では終わらず、僕のものだけをあとに残し、それを僕ひとりが三か月かけてひとりで相手にした。

 本や雑誌は知識や思索の記録媒体であり、レコードは歌や演奏の記録媒体だ。どちらもひとまず完成したかたちをしたものだから、たいそう買いやすい。買っているという意識すらないままに、買い続けることが出来た。その二十五年分の結果が、倉庫と見まがう量となったわけだ。11LDKのその家の、使っていない部屋のすべてに、そして収納庫や物置のすべてに、うず高くぎっしりと詰まる本や雑誌を見て、僕は何度もため息をついた。本や雑誌の九十パーセントはアメリカのもので、重さは充分にあり、しかも本はみな大きい。

 買った本やレコードのうち、読んだり聴いたりしたのはほんの一部分だ。あとはただ買っただけだが、買うことにこそ意味があったのだとすると、その二十五年が、僕にとって好ましい一定の振幅で維持され持続した、平和で安定した二十五年だったことがよくわかる。本やレコードを買い続けて山のような荷物にすることの、じつにたやすく可能な生活が、いかに平和と安定をその基盤としていることか。

 このような平和で安定した日々のなかを、僕はいろんな内容の文章を原稿としてひたすら書き続けるという、これもまた平和と安定がなければまず成り立たないような生活を、なに不自由なく送ったのだ。レコードはそのままいまも作業室にある。古書店に引き取ってもらった本と雑誌の量は半端ではなかったが、残った量も半端ではなく、それらは引っ越し会社の段ボール箱に入ったまま、いまも百個近くがガレージのなかにそのままある。

底本:『自分と自分以外──戦後60年と今』NHKブックス 二〇〇四年

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『自分と自分以外──戦後60年と今』 レコード 引っ越し
2017年10月9日 00:00