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会社で学んだこと

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 会社に就職するとどうなるのかという僕の好奇心に、わずか三か月ではあったけれど、会社は充分に答えてくれた。会社に入って最初にわかったのは、ただの新卒はほとんど人ではない、ということだった。新卒はまず会社の備品になる。備品とは、いちばん下の位置にあるもの、というような意味だ。

 いちばん上が社長だとするなら、彼は重役たちから備品まで、すべてを見下ろす位置にいる。重役たちは部長たち以下を見下ろし、部長たちは課長たち以下を見下ろすというふうに、縦の序列はきっちりと出来上がっている。ただの新卒は、誰からも見下ろされる位置にいる。

 次の年、あらたな新卒が入ってきたなら、前年度入社の新卒たちは、その新しい新卒だけを見下ろすことが出来る。今年度の新卒は、前年度の新卒がそうだったように、社内の全員を見上げる。日本の会社では、このような厳密な縦の序列のなかにのみ、会社の仕事をしていくという会社機能が生まれる。

 新卒の僕は、朝、自宅で目を覚ます。会社へいくために目を覚ます。起きて食事もそこそこに、会社へいくしたくをする。そして家を出る。電車やバスの駅へ、当時はみんな歩いた。会社の建物へいくためだけに使われる通勤時間というものが、毎日、このようにして始まる。

 午前八時三十分から会議がある。これは普通の会議であり、早朝会議と言われるものは八時からだった。夜は、僕の場合は、地下鉄・銀座線の最終ふたつ前に乗るのが、退社の定刻だった。帰宅すると風呂に入って寝るだけだ。これだけとは言わないが、このような生活が、六十歳の定年まで続く。一年めを始めたばかりの新卒が数えると、会社生活は三十八年もある。

 新卒だけに限らないが、特に新卒たちは、社内でいろんな人たちから、さまざまに観察されている。観察とは査定だと言っていい。多くの人たちから、彼らの仕事の一部として、不断に、数多くの視点から、新卒に対する査定的な観察がなされている。

 昔はせっかちな査定ではなく、長期にわたってそれはおこなわれた。査定の結果は、いつのまにか、たとえば部長なら部長の頭のなかに、少しずつ蓄積されていった。蓄積された結果は、さらに続く観察によって、おもむろに査定されていく。このプロセスのなかで、必要ならふるいにかけながら、人材は育てられていったのだろう。優秀な会社ほど、人材を育てる力を持っている。現在ではもっと短期間に、人材は育成されているはずだ、と僕は想像する。

 三か月しか在籍しなかった僕より早く、ひと月で辞めていった同期の青年がいた。いま辞表を出してきたという彼と、昼食をともにした。出身地の北海道へ帰るためこれから東京駅へいき、まず青森行きの汽車に乗る、と彼は言っていた。昼食を終わって店を出た僕たちは、そこで握手をして別れた。

 入社してひと月やふた月で辞めていく新卒は、いつの時代でも珍しくもなんともない。僕は三か月いた。その三か月のあいだに、僕がどのように観察されたか、部長から直接に聞くことが出来た。観察結果があまりにもひどかったからだ。

 ある日、デスクに向かって仕事をしていた僕に、ちょっと来い、と部長が呼んだ。彼の席へいくと、「お前はいつも塵缶に片足を載せている。見苦しいから止めろ」と、彼は僕に言った。片足とは左足だ。誰のデスクの下にも、破いた書類や書きそこなった手紙などを捨てるために、金属製で円筒形をした塵缶があった。その上に左足を載せていると、僕の体や気持ちは安定した。

「お前はいつもあくびをしている」とも部長は言った。あくびは眠いからだ。いかに眠かったかは、すでに書いた。眠いだけではなく、いわゆるストレスも影響していたはずだ。あくびは危険信号なのだから。場違いなところに身を置いていれば、ストレスもあるだろう。

「お前はいつもネクタイをゆるめているし、服は上下違う。それにいつも色のついたシャツを着ている」

 タイは苦しいからゆるめる。上下違うとは、昔の言いかたでジャケットにスラックスだが、これは会社ではドレス・コードに反していたようだ。紳士上下揃い、というのでないといけなかった。色のついたシャツといっても、ごく淡いブルーやピンクだ。その程度の色ではいっさいなにごとも起きないはずだが、昔はこれもいけなかったようだ。以上のような観察の結果を、部長は僕に伝えた。改めろ、と僕は言われた。僕は叱られたのだ。

 そのすぐあと、隣の部の課長代理が、歩いていた僕を席から呼びとめた。彼のかたわらへいくと、「部長に叱られただろう」と、彼は囁いた。「はい」と答えた僕に、「なんと言って叱られたんだ」と、彼は訊いた。部長が僕に言ったことを彼に伝えると、彼は苦笑の見本のような顔となった。そして、「もっといいことで叱られろよ」と言った。

 すでに書いたように、会社とは縦の序列の世界だ。この序列のなかに、社員相互の関係のすべてがある。楽しいところではない。遊ぶところでもない。十年、十五年と、我慢し続けなければならない。そして理想的には、その我慢のなかから、自分にもっとも良く出来る仕事というものが、見えてくる。縦序列の関係は、誰もがそれぞれの位置で守るべき、型と型との関係だ。最末端の新入社員が守るべき型を、僕は守っていなかった。

 会社のなかでは小さな競い合いが常におこなわれている。そのことの一端も、僕は見た。日本人はなによりも和を大切にするとか、日本人の心の拠り所は和の精神である、などといまでも言われているが、これは噓だ。噓あるいは単なる建前だ。本当はそうではないけれど、そしてそのことを誰もがよく承知しているけれど、そう言っておけばみんな安心してその意見に賛成し、すべては丸く収まるという、方便のひとつだ。

 会社のなかでの競り合いは、小ささが基本であるようだ。身のまわりの小さな範囲で繰り返される、小さな競い合いだ。A課、B課、C課と三つの課がそれぞれ一列にデスクをならべているとすると、A課はB課と競り合い、B課はA課そしてC課と競り合い、C課はB課と競り合う、というようなことになる。A課が朝の会議を八時三十分に開くと、B課は八時から会議をする。

 科学的な戦略も展望もない、とにかくそのときその場ごとに思いつかれては実行されていく、競い合いだ。高度成長が始まって以来、日本を埋めつくした会社組織のいたるところで、このような競い合いが日夜おこなわれることによって、戦後の日本はここまで作られてきた。

 足の引っ張り合いも、競い合いのヴァリエーションだ。ひとり突出する人は、その足を引っ張られる。ひとりに突出されては困るからだ。突出の分だけ、自分は下がることになる。突出が評価されれば、それはその人が獲得した権力として、他の人たちは受けとめなければならない。いずれにしろ、日本人にとって、これは承服しがたい事態だ。全員で一様に進んでいくなかでの、絶えることなく繰り返される、小さな競い合いの無数の連続。これこそ、ひょっとしたら、和の精神なのかもしれない。

 三か月だけいた会社で、僕が身にしみて知ったこと、あるいは学んだことは、自分は商社の人材ではない、という事実だった。当時の僕が自分で第三者的に判断して、僕はまるで駄目だった。その判断はいまでも変わらない。商社には商社にふさわしい人材が必要であり、ふさわしくない人の居場所はどこにもない。

 そんな人である僕が、なぜ入社出来たか。新卒という不特定多数に対しておおざっぱに網を投げ、そこにかかったのをすくい上げる。長い期間のなかで、十人のうち三人ほどが、仕事の出来る人材となってくれれば上出来。そんな方針が充分に機能していた時代だった。僕はおおざっぱな網にはかかった、というわけだ。日本の会社における人海戦術が、本格的に始まってまだ五、六年の頃だった、と僕は理解している。

 ふさわしくない人は、その場を去らなくてはいけない。入社して三か月がたとうとしていた。最初の三か月は見習い社員としての仮の雇用であり、正式になるのは四か月めからだ、という話を僕は聞いた。三か月で辞めるなら、正式になる前に去ることが出来る。

 辞めます、と僕が言ったきっかけは、早朝会議だった。八時三十分からの会議が何日か続いた。空疎な言葉でただ意味もなく檄を飛ばす、というだけの会議だった。会議の議長がしめくくりにいつも言う台詞は、「俺がいま言ったような方針が嫌な奴は、いつ辞めてもいい」というものだった。ものの言いかたを知らない人が、もっとも言いやすい言いかたをして、誰よりも先にまず自分を鼓舞していたのだろう、といまの僕は思う。彼こそ辞めたかったのだ。

 このような会議の何度めかに、会議のしめくくりとして、「嫌な奴はいつ辞めてもいい」という台詞があり、「では僕は辞めます」と、僕は言った。それから何日かにわたって、僕は慰留された。慰留のしかたは、いま思い起こしても不思議な気持ちになるほどに、じつにやさしいものだった。僕の感じかたでは、エレヴェーターで僕を屋上へ連れていき、往復ビンタくらいは正当かと思うが、そんなことはけっしてなかった。

 やさしさは、このとき早くも、世のなかの主流だったのではないだろうか。もしそうなら、そのようなやさしさは、それ以後の年月のなかで部長から課長へ、課長から課長代理へというふうに伝承されてぜんたいに広まり、大きな災いのもとを作ったのではないか。高度成長が始まり、経済が価値の中心となっていったことと軌をひとつにして、いっぽうでは学校で、そしてもういっぽうでは会社で、日本の人たちはやさしさを増殖し合い、それを経済と一対の価値の座へ押し上げた、と僕は考えている。

 僕に対して示されたやさしさは、慰留するというかたちを守ること、そして配属されて三か月の新人に席を蹴って去られては自分たちのメンツが立たないではないか、ということを僕にわからせるための、両方にまたがっていたかもしれない。よく知らない世界のことだから、断言は出来ない。

 適材ではない僕がこれ以上ここにいては、あとはもう迷惑をかけるだけだから、という僕の説明を受けとめたのは、商社の最前線で仕事をしてきた人たちだ。配属された僕をひと目見て、これは困ったことになった、と彼らが思わなかったはずがない。僕は適材ではないとは、きれいな言いかただ。身も蓋もなく正確に言うなら、僕は商社の人材としては三流である、という言いかたがいちばんいい。辞表はどこに出すのか隣の部の課長に訊いたら、「会社組織としては総務部長だ」と、彼は答えた。

 便箋に辞表を書いた僕は、本社の総務部へ持っていった。本社は戦前に建築された、その時代にふさわしいクラシックな造りの、小ぶりな建物だった。エレヴェーターのドアは金網の入ったガラス戸だ。古風な把手をつかみ、自分で開き自分で閉じる方式だった。いろんな音をたてながら、故障ではないかと思うほど緩慢に、そのエレヴェーターは昇降した。

 総務部に入ると、丈の高いカウンターがあった。そのカウンターの幅いっぱいに、窓口がひとつだけある木製の枠が、立っていた。戦前の映画に出てくる、銀行や郵便局とおなじ雰囲気だった。そのひとつだけの窓口ごしに、僕は総務部長に辞表を手渡した。辞表をゆっくり読んだ彼は、困ったような顔で僕を見た。さらにしばらく辞表のぜんたいを観察していた彼は、ここに捺印してほしいと、僕が末尾に書いた自分の名の下を、窓口ごしに指さした。

 大部屋のデスクを整理してきた僕は、唯一の自分の持ち物であった印鑑をひとつ、ポケットに持っていた。大部屋総務の女性が給料日に給料袋を配って歩く。受け取るときに受取帳に捺印する。そのための印鑑だ。名前の下に捺印し、受理してもらい、それでおしまいだった。大部屋で僕が所属していた部の部長は、午後三時に帰ってくることになっていた。だから三時過ぎに、すでに退社した人として、僕は大部屋へいき部長に挨拶した。「そうか、残念だな」と、彼は言った。

 それからおよそ二十年後、その商社にそのときは勤めていた二十代の女性から、僕に手紙が届いた。一種のファン・レターだ。「いま私の勤めている会社に、カタオカさんがいたということが、どうしても信じられません。しかし本当なのですね。カタオカさんが辞めたときのことは、いまも社内で語り草です」と、彼女は書いていた。僕を記憶している人たちが、面白おかしく尾ひれをつけ、笑い話にしていたのだ。その語り草も、いまはもう消えている、と僕は思う。

底本:『坊やはこうして作家になる』水魚書房 2000年

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2017年6月30日 00:00
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