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森永ミルク・キャラメルの箱

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 掌サイズ、という言葉がある。片方の掌に収まる、あるいは片方の掌だけで楽に持てる、というサイズを総称して、掌サイズと呼んでいる。日本におけるこの掌サイズの、じつになんとも言いようがないほどに素晴らしい、しかも普遍に到達していると言っていい、古典的な完成品は、森永ミルク・キャラメルの箱だと、ずっと以前から僕は確信している。

 このような確信の、何度目とも知れない確認を、いま僕はひとりでおこなっているところだ。森永ミルク・キャラメルをいくつか、僕は買って来た。それが目の前にある。復刻版と現代版のふたとおりがあるけれど、サイズはまったく同一だ。新品の状態、つまり中箱のなかにキャラメルが入っていて、外箱はセロファンでくるんである状態も、キャラメルの重さの合計がきわめてほど良く、たいそう好ましい。

 セロファンを取り去り、中箱からすべてのキャラメルを取り出し、中箱をふたたび閉じて箱だけにした森永ミルク・キャラメルの、文字どおり箱のみの状態も、愛でたり鑑賞したり、何度繰り返しても飽きることがない。薄いボール紙による掌サイズとしての箱の傑作、というものがこれなのだと、僕は強く実感する。

 ためしに外寸を計測してみると、僕が測ったところでは、縦が八十四ミリで横幅は四十五ミリ、そして厚さが十九ミリだ。この絶妙なサイズは、どこから生まれたものなのか。森永を検索すると、ミルク・キャラメルの箱の歴史が、たちどころに判明したりするのだろうか。キャラメルは主として子供のもの、という前提が最初からあったなら、この掌サイズは子供の手を意識したものだったのか。キャラメルひと粒を紙に包んだ状態での容積をまず決定し、ひと箱のなかにその粒をいくつ入れるのかをきめると、ひと粒の容積の個数倍が箱の容積となる。もっとも重要な前提は個数かもしれない。ひと箱のなかに何粒のキャラメルが入っていれば、それは箱入りのキャラメルとして、どこからも文句が来ることなく成立するのか、というような。

 それにしても、この掌サイズは素晴らしい。この素晴らしさは、もはや永遠ではないか。野球の巨人がもはや永遠でもなんでもなくなったいま、永遠という座につくべき正当な存在は、森永ミルク・キャラメルの箱ではないか。この素晴らしいサイズは、キャラメルだけではなく、いろんな物に使えるはずだと僕は以前から思っているのだが、他の物に応用された例を僕は見たことがない。気がついてないだけだろうか。キャラメルの箱のスタンダード・サイズとしてのみ存在しているのであれば、なんというもったいないことか、と言わなくてはいけない。

 この掌サイズを他のものに応用するにあたっては、いろんな方法があり得る。内部の容積を、その厚みにおいてふたつに分け、そのうちのひとつを下に向けて引き出せるようにしておくと、携帯電話として僕にとっての理想のサイズとなる。使うときにだけ引き出す。気味が悪くて不細工で、しかも持ちにくく扱いにくい携帯電話から、とにかくあの曲線や曲面を駆逐する力を発揮するのは、森永ミルク・キャラメルの箱をおいてほかにない。こんなことを書いていていま突然に思い出すのは、標準サイズよりも小さい箱、つまりなかに入っているキャラメルの個数が少なく、したがって高さだけをそのぶんだけ低くしたサイズが、確かあったはずだという記憶だ。

(底本:『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』NHK出版 二〇〇五年)

関連リンク|6月10日は”森永キャラメル”が初めて発売された日

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2005年 『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』 森永ミルク・キャラメル 菓子
2017年6月10日 00:00
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