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ノートブック

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 五月はじめのタヒチ。快晴の一日がほぼ終わり、太陽が海に沈む時間がはじまろうとしていた。

 ホテルのプールサイドから、人々は部屋にひきあげていた。シャワーを浴びてひと休みしてから、夜の服に着がえるのだ。

 プールのわきに、きれいな芝生の庭園があった。熱帯樹や椰子やしが配置よく植えてあり、白く塗った丸い木のテーブルと椅子が、そこかしこに置いてあった。

 淡くオレンジ色に変わった太陽が、斜めに照っていた。

 ひょろっと高い椰子の樹が、芝生に、長い影を落としていた。影は、ぼくがすわっていたテーブルのわきをまっすぐのびていき、すこしはなれたところにあるテーブルまで、届いていた。

 そのテーブルには、だれもいなかった。丸く白いテーブルの上いっぱいに椰子の樹のてっぺんの葉が、鮮明な黒いシルエットになって、ゆれていた。

 海風が、おだやかに吹いた。庭に、甘い香りがただよった。

 このホテルに専属の、ファイア・ダンスのチームの若者たちが練習するリズムの音が、熱帯樹の林のむこうから、聞こえてきた。

 女性がひとり、プールにそって、歩いてきた。くすんだ金髪の、すっきりした細身の女性だった。

 夜の食事の楽しみのための服を、彼女は着ていた。シンプルな、長いドレスだ。彼女の体の線を流れるようにぴったりつつみ、ほっそりした体の美しさを強調していた。白いきれいな肩と、そして背中が、しりのすぐうえあたりまで、あらわになっていた。はだの色と輝きに、服の色調がよく似合っていた。

 すそさばきも見事に歩いてきた彼女は、優雅な身のこなしで、テーブルの椅子をひき、すわった。

 シルエットになった椰子の葉がゆれている白いテーブルに、彼女は、持っていたノートブックを置いた。

 あらわな肩、そしてうなじにかかる髪を風に吹かれながら、彼女は、日没の赤い空を見た。

 やがて、ウェーターが、飲み物を持ってきた。透明な、涼しそうな飲み物だった。ホワイト・ラムのソーダ割りだ、とぼくは思った。なぜだか理由はない。とにかく、そう感じただけだ。

 それをふたくち飲んだ彼女は、椅子をテーブルにひきよせてすわりなおし、ノートブックを開いた。そして、はさんであったオレンジ色のボールペンで、ノートブックになにかを書きはじめた。

 ときたま左手でグラスを持ちくちびるにはこぶほかは、書く作業に没頭していた。書きはじめたときの、ほどよく力のこもったいさぎよさは素敵だった。そして、それよりもなお素敵だったのは、顔をあげず手を休めず、書きつづけていくそのリズムだった。

 書くべきことが頭の内部に充満して渦まいているらしく、ボールペンの先でそれをつむぎ出しては、書きつけていく。

 なにを書いたのかは知るすべもないのだが、とにかく彼女は、書いた。飲み物はやがてからになり、椰子の葉のシルエットはテーブルの上をはなれ、彼女の胸へ移り、さらにそこをこえ、背後にのびた。

 一時間ちかく、彼女は書きつづけた。彼女の顔に当たっているがまっ赤になるころ、彼女は書く手をとめた。まえのほうのページをくってところどころ書きこみをしたあと、ボールペンをほうりこむようにノートブックにはさみ、閉じた。

 そしてすっくと、立ちあがった。ノートブックを持ち、彼女は歩いた。ぼくのテーブルのそばを通るとき、ぼくと目があった。にこっと、彼女は微笑した。ぼくは、微笑をかえした。

 さっきまで彼女がいたテーブルのまんなかを、椰子の樹の長い幹のシルエットが、まっすぐにつらぬいていた。

 彼女がそのテーブルにあらわれてからいなくなるまで、すべてが素敵だった。そして、結局、ぼくがもっともひかれたのは、彼女が持っていたノートブックだった。

 あのようなデザインと質感、雰囲気ふんいきのノートブックは、日本には絶対にない。簡素で実用的で、なおかつ持ち物としての楽しさをたたえた、すこし分厚いノートブックだった。厚紙の表紙の角が丸く落としてあり、洒落しゃれた雰囲気はなんともいえない、いいものだった。

 島のスーパー・マーケットの二階の、文房具売場でおなじノートブックを見つけたぼくは何冊も買ってしまった。日本にもいろいろノートブックは多いけど、あのようなデザインのは、いっこうに登場する気配はない。いま流行のファッション・ノートなど、ますますあのノートブックから遠ざかるばかりだ。

底本:『アップル・サイダーと彼女』角川文庫 1979年

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2017年5月10日 00:00
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