アイキャッチ画像

アイスキャンディ

縦書きで読む

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

 アイスキャンディを最初に食べたのはいつだったか。日本という失敗国家が冒した完膚なきまでの大敗戦という失敗の、あの夏ではなかったはずだ。あの夏はあのときすでに峠を越えていたし、アイスキャンディどころではなかったからだ。次の夏だったか。あるかなきかの手がかりを頼りにいくら考えても、確かな答えは手に入らない。しかし、アイスキャンディを初めて食べたのは一九四六年の夏のことだった、とは言ってもいいと思う。次の次の夏、つまり一九四七年の夏なら、それは確実にアイスキャンディの夏だった。そうであるなら、アイスキャンディを最初に食べたのは、一九四六年の夏だった、ということにしておきたい。

 気分でそうするのではなく、僕なりに根拠はあるからだ。敗戦日本の復興は、当時を知っている人たちがなんとなく記憶している復興よりも、はるかに早く、広い範囲で、多様に、しかもすさまじいほどいっせいにおこなわれ、実現されていったからだ。敗戦の次の年の夏に、アイスキャンディが日本じゅうの村や町にいっせいにあらわれたとしても、そのことに不思議はいっさいない。

 アイスキャンディは子供のもの、と思う人がいまは多いはずだが、当時は子供のものとして固定はされていなかったように、僕は思う。と言うよりも、どちらかと言えば大人のものだったのではないか。そうか、子供もいたか、食べたいなら食べろよ、買ってもらえ、というような位置に、当時の子供はいたはずだ。そしてそのアイスキャンディを初めて食べたときのことを、僕はなにひとつ覚えていない。記憶に残るほどの出来事ではなかったからだろう、といまの僕は推測する。ただし、初めてアイスキャンディを目の当たりに見たとき、ひと目見てそれがなにだかわかり、そのすべてを理解したという記憶はある。アイスキャンディという物も言葉もそれまでは知らず、見るのも聞くのも手にするのも初めてだったのに、見たとたんにそれがなにであるか、隅々まで理解はおよんだ。そしてそれを、欲しいと思った。

 欲しいとは、食べたいということだが、食べるという直接の行為は欲しいという気持ちの七十パーセントほどを占めていて、残りの三十パーセントほどは、物としてオブジェとして、自分のものとして自分の手に持ち、ためつすがめつして楽しみたい、というような願望だった。アイスキャンディのかたち、たたずまい、質感、色などが、そのような三十パーセントを僕のなかに作り出した。

 もっとも標準的なかたちのアイスキャンディは、一端に向けてわずかにテーパーした、もっとも太いところで直径が三十五ミリほどの円筒で、太いほうの端のまんなかからは、割った割り箸のかたわれのような木の棒が一本、突き出ていた。それは把手なのだった。そこを手に持ち、凍っているアイスキャンディを、溶けないうちに食べるのだ。アイスキャンディを食べるとは、どういうことだろうか。初めは舐めるほかない。硬く凍っているからだ。少しだけ溶けてくると、先端からかじり取ることが出来た。かち割り氷の凍りかたとはまるで異なるから、かじるときの感触には、歯で崩し取る、とでも言うべき感触があった。溶けすぎると、かじろうとしてごそっと大きく崩れた部分を落としてしまうことがあった。そうしないように、そしてそうはならないうちに、アイスキャンディは食べてしまわないといけなかった。

 氷菓子、というれっきとした日本語がある。アイスキャンディは氷菓子の一種だろう。氷菓子とはよく言ったものだ。アイスキャンディはまさに氷菓子ではないか。氷菓子を英語へと直訳すると、アイスキャンディとなる。敗戦後の日本、つまり占領下の日本に、アイスキャンディはこの意味でもたいそうよく似合う。だから僕は、アイスキャンディを一九四六年から一九五〇年くらいまでのものとして、とらえている。アイスキャンディ前期と言ってもいい。後期は一九五〇年から一九五五年あたりまでだ。そしてそれ以後のアイスキャンディに関しては、元気でいてくれればそれでいい、としか言いようがない。

 敗戦の明くる年、一九四六年の夏に、アイスキャンディは全国の街に、おそらくいっせいに登場した。アイスキャンディを作るための設備は、たいしたものではない。店の脇の物置小屋のようなところで、小型のモーターが回転していた光景を僕は記憶している。アイスキャンディは電気じかけだった。いまの日本の家庭のどこにでもある冷蔵庫の、なくてはならない機能である冷凍庫の、きわめて素朴なものがアイスキャンディを作っていた、と思っていいだろう。

 アイスキャンディというものを作るために、ゼロから考案して製造した装置ではなかっただろう。以前からあった、なにか別のことのための装置が、転用されたのではなかったか。アイスキャンディそのものは戦前からあったはずだ。大正時代までさかのぼることが出来るかもしれない。装置は以前からあったのだ。国家が戦争へと急傾斜していった戦前そして戦中、砂糖もなく電力も厳しく制限され、気持ちとしてもアイスキャンディどころではなくなった。国家によって禁止され、抑圧され、抹殺されたも同然だったアイスキャンディは、敗戦とともに、いち早く復活した。

 先端に向けておだやかにテーパーした円筒形という標準型がまず登場した。円筒ではなく平たい長方形のものがあらわれたのは、しばらくあとだった、と僕は記憶している。平たい長方形という、新たな新製品のために、わざわざ金型が製作されたのだ。円筒形に対して差異化を試みた、新発売の平らな長方形。商品の開発競争はアイスキャンディにおいてもおこなわれた。

 白い円筒形のアイスキャンディに一本の細い棒をさしたもの。僕が知っているアイスキャンディの、もっとも最初の、もっとも標準的なものがこれだ。白い色は、なにだったか。ミルク・キャンディと称した、ミルク風味のアイスキャンディが、一九五一年には市販されていた事実は、確認することができた。ただ凍っているだけなら、あのように白くなったりはしないはずだ。では、あの白はミルクだったのか。アイスキャンディをめぐっては、このような小さな謎がいくつもある。

 甘さには何とおりかあった。明らかに砂糖ではない、と子供にもわかるような、人工甘味料の甘さであり、その甘さには、これは先日のとは違う、とはっきり言うことの出来る差異があった。どの甘味料を使うかによって、甘さの質や方向がきまったのだ。明らかに砂糖の甘さではない、というところにアイスキャンディの魅力の大きな部分が潜んでいた。凍らせると甘さは感じにくくなる。標準サイズのアイスキャンディ一本を、砂糖だけで甘くするには、大匙に山盛りで五杯は必要だろう。

 淡いオレンジ色と、淡い紫色。色としてはこのふた種類がもっともポピュラーで、どこにでもあった。オレンジ色のはオレンジの香り、そして紫色のは葡萄の香りだったかというと、けっしてそんなことはなかった。それほど明確な区別はなされていなかったし、買って食べるほうもまだそこまで強欲ではなかった。甘さとおなじく香りも人工的なものであり、色がそこはかとない淡さであったのとおなじように、香りもはかなげなものだった。なぜそうだったのか、これも小さな謎だ。戦前と地続きの日本人が、氷菓子に甘さや香りをつけようとすると、あのようになるのがもっとも無理のないところだったのか。

 アイスキャンディを売っていた小さな雑貨店のような店のどこにも、アイスキャンディを作る設備があったとは思えない。製造元が、卸しに来ていたはずだ。ブロック・アイスを使うアイスボックスしかなかった時代に、そのようなアイスキャンディはなぜ溶けなかったのか。溶け始めた印象のあるアイスキャンディを、店のおじさんやおばさんから受け取った記憶は皆無だ。いつどこでアイスキャンディを買っても、それは完全に凍って完成の域に達し、そのままの状態が維持された新品そのものだった。まず最初にそれを舐めるとき、舌の先が軽く貼りつくほどに、どのアイスキャンディも美しく凍っていたではないか。自転車で売って歩くおじさんから買うアイスキャンディですら、そうだった。いったいどんな工夫があったのか。

 アイスキャンディが持っている魅力で最大のものは、リアルではないことだ。アイスキャンディそのものは、充分にリアルな現実なのだが、周辺に無数にあったはずのさまざまな現実のどれとも、アイスキャンディは結びついていない、という印象を僕は強く持った。虚空に浮かんだ架空の食べものだ。

 食べ終わると、細い棒が一本、手のなかに残った。頭のてっぺんを照りつける日本の夏の陽ざしに、この一本の細い棒はよく似合った。消えてしまったアイスキャンディの、ファンタジーとしてのリアルさの、名残ないしは思い出だ。地面に数センチだけその棒を埋め、その上から足でいっきに踏みつけ、棒が倒れたり折れたりせずに、そのぜんたいが地面にめり込むかどうか、という遊びのあとには、名残や思い出すらどこにもないのだった。

(底本:『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』NHK出版 二〇〇五年)

関連エッセイ


2005年 『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』 アイスキャンディ 子供 菓子
2017年5月9日 00:00
サポータ募集中