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マヨネーズが変わった日

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 ナンシー梅木は本名を梅木美代志といい、一九二九年に小樽で生まれた人だ。占領米軍とのつながりを持った人たちが、戦後の彼女の身辺には何人もいたようだ。彼らを経由してアメリカ兵たちと親しくなり、そこからさらにアメリカ文化へと接近していった彼女は、戦後アメリカのポピュラー音楽に強い興味を抱くようになった。

 そしてついには、と言うよりも早くも、北海道の米軍キャンプ、札幌マクネア劇場(松竹座)、NHK札幌、さらには仙台のキャンプなどが、歌手としての彼女の仕事場になっていき、一九四八年の初めに彼女は東京へ出て来た。敗戦からの三年間を、まだ十代だった彼女は、こんなふうに過ごした。

 東京へ出て来たときすでに、彼女はナンシー梅木だったのではないか。ジャズ歌手として仕事をするには、格付け審査のオーディションを受けなければならなかったようだ。彼女はこれにAクラスで合格した。角田孝というギター奏者が率いたセクステットの専属歌手をへて、クラリネット奏者レイモンド・コンデのゲイ・セプテットの歌手となった。このバンドは当時の日本でもっとも人気の高いジャズ・バンドだった。だからそこの専属歌手も、当然のこととして、ジャズやポピュラー・ヴォーカルのスターだった。

 ゲイ・セプテットのあとは、これも人気のあったスター・ダスターズというバンドへ移り、一九五二年の春には、横浜小港町の米軍キャンプの「シーサイド・クラブ」の専属歌手になった。北海道で早くも充分にスターとして活躍していた彼女は、東京へ出て来たとたんに、最高の場所でおそらく最高の評価を手にしながら、大活躍を始めたと言っていい。そしてそのような活躍は、彼女がアメリカへと向かう過程でもあった。一九五五年七月二十七日、彼女は羽田空港から飛び立ち、ハワイ経由でロサンジェルスへと向かった。

 アメリカでも彼女は急速にスターとなっていった。絵に描いたようなエグゾティックな日本を、ナンシー梅木ではなくミヨシ・ウメキとして、彼女は最初から体現していた。LAではクラブで歌い、ジョゼフィン・ベーカーのショー、映画などに出演し、ニューヨークではアーサー・ゴッドフリーの「タレント・スカウト・ショー」というTV番組で優勝した。テネシー・アーニー・フォードのTVショーや、「アーサー・ゴッドフリー・アンド・ヒズ・フレンズ」というTV番組をとおして、全米に知られるスターとなった。

 ゴッドフリーの番組への出演をきっかけにして、一九五七年のワーナー・ブラザーズ映画『サヨナラ』に出演することになり、「かつみ」という役を演じてアカデミー助演女優賞を獲得した。続いてジェリー・ルイスの映画『ゲイシャ・ボーイ』に出演し、これがきっかけとして作用し、ブロードウェイのミュージカル『フラワー・ドラム・ソング』のメイ・リーという役を得た。このときの彼女の演技は絶賛され、一九六一年に映画化されたときにも、ウメキはおなじ役を演じた。

『ナンシー梅木の初めの頃』というCDのライナーを見ながら、なぜ僕がナンシー梅木についてこんなふうに再話するのかというと、僕の日本体験にとって、象徴的な役割ないしは存在として、彼女はいまも機能しているからだ。僕にとっての日本は、ふたとおりある。ひとつは主として敗戦後の占領下の日本であり、それは一九四五年から始まり、一九五三年には終わりの兆候が見え始め、一九五四年から五五年にかけてのあいだに、終わっている。そしてもうひとつの日本は、そこから始まったそれ以後の、それ以前とはまるで異なる、もうひとつの日本だ。僕にとっての前半の日本を象徴する存在が、ナンシー梅木なのだ。

 この期間の日本は僕にとってはアメリカと重なっている。アメリカと日本とが重なっていて、ひとつの体験を構成している。領域によっては、両者はかなりのところまで、親和性を発揮した。戦後日本のジャズ、そしてそことつながったかたちでのポピュラー音楽は、そうした領域のもっともわかりやすいもののひとつだろう。日本とアメリカの、どちらかが主で他方が従ということは、僕にはない。どちらもほぼ対等であり、どちらも僕にとっては、それぞれにエグゾティックな世界だった。

 僕にとっての日本体験の前半が、一九五四年から五五年にかけての期間のなかで、終わってしまった。一九五三年には朝鮮戦争が休戦している。そして一九五六年には、経済企画庁の経済白書をとおして、「もはや戦後ではない」と日本政府は宣言した。僕にとっての日本体験の前半の終了は、歴史的な事実と符号している。少年へとさしかかった年齢の、まだ充分に子供だったと言っていい当時の僕が、子供の体感として受けとめた日本体験の終わりの、もっとも身近な具体例のひとつは、マヨネーズの変化としていまもはっきりと記憶している。それまで僕の身辺では、マヨネーズはダーキーズかベストフーズのものだった。これが良かったから、という意味ではなく、マヨネーズはそれだったという、ただそれだけのことだ。そしてこの期間にマヨネーズはキューピーへと変わった。

 一九五〇年の三月から一九五三年の終わりにかけて、二十五曲の録音をナンシー梅木は日本ビクターに残している。この二十五曲のうち二十一曲までを復刻したのが、『ナンシー梅木の初めの頃』というCDだ。このCDで、『君待てども』という歌を聴くことが出来る。一九四八年に平野愛子で大ヒットした歌だ。ナンシーのヴァージョンでは、君待てども、という日本語は、アイム・ウェイティング・フォ・ユー、という英語になっている。そして歌詞はすべて英語だ。僕が言う日本とアメリカの、親和性をたたえた重なりとは、象徴的な一例としてこのようなことだ。

 彼女はこの歌を一九五〇年に録音している。敗戦の一九四五年から、僕にとっての前半の日本が終わる一九五五年までの十年間の、ちょうどまんなかではないか。日本にいたあいだの彼女は、少なくとも僕にとっては、ナンシー梅木というエグゾティックな存在であり、アメリカへ渡ってからの彼女は、ミヨシ・ウメキとしての、また別のエグゾティックな物語だ。一九五五年七月二十七日に羽田から乗った飛行機で、ハワイまではナンシー梅木といっしょだった「僕」という架空の少年を主人公にして、その少年にとっての日本体験の終わりを僕は小説に書くはずなのだが、まだ実現させていない。

 どのような物語になるのか、おおまかな道筋はすでに僕の頭のなかにある。比喩のような言いかたをするなら、日本語と英語とのあいだで道に迷いそうになる少年の話だ。東京ではダーキーズだったマヨネーズが、ハワイではベストフーズに変わる。そのことをとおして彼はキューピー・マヨネーズの可能性について思う。アメリカへ渡ったあとのナンシー梅木の活躍が、ハワイの彼にも伝わってくる。ナンシー梅木ではなくミヨシ・ウメキである事実と、キューピー・マヨネーズとが重なる。するとそこには、迷子になりそうな彼にとって、標識のような役割を果たす年上の日本女性がひとり、浮かび上がってくる。きみはいったいなにを言いたいのか、と言われそうだが、書こうとしている小説がまだ頭のなかだけにあるとき、その頭のなかはだいたいこのようなものなのだ。

(底本:『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』NHK出版 二〇〇五年)

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2017年5月8日 00:00
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