アイキャッチ画像

エドワード・ホッパーが描いたアメリカの光

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

 エドワード・ホッパーの画集が欲しいと、もう何年もまえから、ぼくは思っていた。ペーパーバウンドの小型の本でいいから、できるだけたくさんホッパーの絵が収録してあり、彼の絵および彼についてのきちんとした評論ないしは解説がついていると、たいへんいい。

 アメリカでブックストアを経営している友人に話したところ、みつけてあげるよと彼は言い、数日前にぼくの手もとに届いた。

[画像(上)左から時計まわり]
EDWARD HOPPER,Crown Publishers, Inc.1984
EDWARD HOPPER,Harry N. Abrams, Inc.1976
EDWARD HOPPER,Harry N. Abrams, Inc.1987[ amazon日本 ]
EDWARD HOPPER,W.W.Norton & Company1980
EDWARD HOPPER 1882-1967,Benedikt Taschen1990[ amazon日本|フランス版 ]

 『エドワード・ホッパー』というタイトルの本で、ニューヨークのハリー・N・エイブラムス社から一九七六年に出ていたものだ。七ドル九十五セントという値段は、非常に安い。ホッパーの個展を企画し運営する仕事をとおして過去にホッパーと何度も会い、彼とのあいだにかわされた対話の記録をもとに、ホッパーのライフ・ストーリーや、彼の絵からみつけだしたいくつかの重要なテーマについて、ロイド・グッドリッチが、簡潔な文章をそえている。エドワード・ホッパーは、現代アメリカを代表するたいへんにすぐれた画家のひとりだ。一八八二年に生まれ、一九六七年に他界している。

 画集に収録してあるエドワード・ホッパーの絵をひとつひとつ見ていくときのぼくは、たいへんにうれしい気持ちだ。

『マンハッタン・ブリッジ・ループ』『四車線の道路』『なにもない部屋にさしこんでいる陽の光』『陽ざしのなかにいる女』『ウェスタン・モーテル』『海辺の部屋』『朝の陽ざし』『カフェテリアのサンライト』『ハイ・ヌーン』『大きな松の樹のある家』『二階に射す陽』『ギャス』『都会の朝』『ホテル・ルーム』『シティ・サンライト』『ドラグ・ストア』『日曜の朝早く』『午前十一時』というぐあいに、ぼくの大好きな絵が、次々に目のまえにあらわれてくる。どの絵も素晴らしい。そして、タイトルがまたいい。なんでもないごく普通の、日常的なタイトルだが、エドワード・ホッパーの絵のよさは、タイトルにもはっきりあらわれている。

 エドワード・ホッパーの絵を見ていると、いくつかの面白いことに気づく。まずいちばん最初の大きな印象は、彼自身もそして彼の描く絵も、まさにアメリカである、ということだ。アメリカらしさに満ちているとかアメリカ的であるというような生やさしいものではなく、アメリカそのものであり、アメリカという動かしがたいナショナリティが、彼および彼の絵の人格を形成している。

 彼の描くアメリカは、現代のアメリカだ。ホッパーの絵が高く評価されはじめたのは一九二〇年代からで、創作の期間はそれ以前から一九六〇年代にまでまたがっている。さきほど彼の絵のタイトルをいくつもあげたが、あのなかでいちばん新しいのは『なにもない部屋にさしこんでいる陽の光』で、これは一九六三年の作品だ。彼の絵をいくつか見ていくと、昔のアメリカ、という印象を受けるかもしれないが、それはホッパーがアメリカの風景の本質をあまりに鋭くつかみすぎていたことからくる一般的な印象にすぎない。彼の描くアメリカは、現代の、つまり都市を持った工業化社会になってからのアメリカだ。

 ホッパーにとっての都市は、ニューヨークだ。そして、田舎は、ニューヨークとおなじく彼が愛したニューイングランドだ。都市にしろ田舎にしろ、エドワード・ホッパーは、ごく普通にどこでも目にするような、平凡な光景を描いた。ホッパー以前の画家たちがそろって無視した対象や題材だ。ホッパーの最初の個展が開かれたとき、多くの人たちは、彼の絵はサタイアだ、と思ったという。彼の絵の題材は、それほどまでにアメリカ的だったのだ。

 ホッパーは一八八二年生まれだから、彼がたとえば二十代のときに体験しているアメリカは、二十世紀になった直後の十年間のアメリカだ。この世代に属するアメリカの多くの芸術家たちがそうだったように、彼もパリで修業した。期間はみじかかったのだが、学ぶべきことは学んだようだ。

 フランス人はまさにフランス人だということをパリで学んだ彼は、自分はまさにアメリカ人だという、ナショナリティの確認をおこなった。そして、そのような目で、アメリカの風景を見なおした。何百年もの伝統を背後に持ってできあがってきたヨーロッパの都市は、ぜんたい的にきちんと統一がとれ、あらゆるものが調和を保ってひとつにまとまっている。

 このヨーロッパを体験したホッパーの目に映じたアメリカは、あらゆるものが荒削りで不統一なカオスだった。たとえば都市の建物ひとつをとってみても、さまざまな様式がめちゃくちゃに混在していて、普通の目で見れば醜悪以外のなにものでもなく、絵に描きたくなるような対象ではないのだ。それに当時はアメリカの工業化が轟々と音をたてて進行していた時代だったから、都市を構成する象徴的なもの、たとえばハイウエイ、コンクリートの巨大な建造物、鉄道、鉄の橋、アスファルト、ガラス、煉瓦といったものを、ホッパーはニューヨークで集中的に体験することができた。

 醜いけれどもそこには独特な美しさも同時に存在するわけで、醜さも美しさもすべて完璧に受けとめたうえで、ホッパーは、それをきわめて主観的に絵にしていった。その主観が非常に官能的であり、この官能性ゆえに、エドワード・ホッパーの絵は素晴らしい。

 彼の描いた絵を見て受ける第一印象は、奇妙なさびしさのようなものではないかと思う。都市のなかにいる人の孤立感とか、すでに流行のさかりをすぎてしまった様式を持つ建築物がそれを見る人の気持ちのなかにひきおこすメランコリー、あるいはニューイングランドの板壁の家に当たっている強い光のさびしさ、窓ごしに見える室内のごく平凡な光景の孤独な感じなどを、ホッパーは好んで描いている。しかし、こういったさびしさや孤独感がマイナスの力を持ったりすることはけっしてなく、強い説得力をともなったプラスの力として、彼の絵を見る人の気持ちに、せまってくる。

 ニューイングランドの板張りの家にしろニューヨークのコンクリートや石の建物にしろ、ホッパーの描く建造物は、すべて、しっかりとした重さをともなった体積を持っている。カンヴァスに描きこまれた建造物の、この体積感や容積感は、画面のデザイン力がホッパーの場合すさまじく強いことからくるものなのだろうと、ぼくは思う。普通、デザインというと、フラットな平面のうえで線やかたちをやりくりするだけのつまらないことになってしまいがちなのだが、ホッパーは容積としてデザインしている。

 ホッパーが描く裸ないしは半裸の女性を見ると、このことはもっとはっきりする。ひとりで部屋のなかにいてその裸身に朝の光を浴びたりしている女性は、まずなによりもさきに確固たるソリッドなマスであることによって、その女性ひとりだけの完全に孤立し独立した存在感を得ている。そして、その存在感ゆえに、ホッパー自身はエロティシズムなどまったく意図しなかったのに、裸の彼女は確信にみちた深い官能性をおびてくる。

 そして、この官能性をカンヴァスのうえで最終的にひとつにまとめあげているものは、光だ。エドワードホッパーが描いた光は何度見ても飽きないが、飽きない秘密はここにある。

『ブックストアで待ちあわせ』新潮文庫 1987年所収
底本:片岡義男エッセイ・コレクション『なぜ写真集が好きか』太田出版 1995年

今日のリンク|エドワード・ホッパー公式サイト

スクリーンショット 2017-02-04 11.01.10

タグで読む03▼|片岡義男の書いたアメリカ

banner_tag_america

関連エッセイ

1月1日 |『草枕』のような旅を


1月18日 |ダブル・バーガー


1月22日 |アメリカらしさの核心のひとつを体現している人の人物像を、完璧に近い傑作小説で読むという感動


2月3日 |アメリカのまんなかにダイナーがあった


11月13日 |アメリカの心がうたう歌が聞こえる


12月24日 |軽飛行機の使い方



1987年 1995年 『ブックストアで待ちあわせ』 アメリカ アート エッセイ・コレクション エドワード・ホッパー 片岡義男エッセイ・コレクション『なぜ写真集が好きか』 画集 観る
2017年2月4日 05:30
サポータ募集中