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半世紀を越えてさぼったこと

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ー2004年3月14日ー *ページ末「まえがき」参照

 日本にとって戦後とは、冷戦が続いていた期間だったようだ。冷戦が終わったあとは次の段階の時代に入ったのだが、日本は気づかないままここまで来た。戦後ずっと、日本はアメリカの傘の下にいた。いまもそこにいる。そしてその傘の下で、日本は外交と軍事をさぼった。どちらも国の根幹にかかわることだが、戦後の日本にとって国の根幹とは、自動車産業の成長や家電のシェア合戦だった。そして国について考えたり語ったりすることは、タブーにまでなった。

 なにしろさぼりにさぼった。外交と軍事をほとんどやらないで来た。だからいまにいたっても、それらについて日本は基本から知らない。知らないから、したがって出来ない。出来ないからますますやらない。やらずにすませることの、言い訳の術だけはうまくなったのだろうか。やっかいなこと、特に対外的なそれを、可能なかぎり考えたくない、したくないというのが、戦後日本の国家方針だった。こういう期間が五十何年も続いたのだから、日本が外のことを知らないのは当然だ。知らないから国際情勢など読めっこない。しかもその情勢は急速にそして複雑に、変化の層を重ねていく。なにをどうしていいかわからない状態を、アメリカへのさらなる依存へと転換する。日米同盟の重視、つまりアメリカからの要求に応え続ける日本を推し進めることをとおして、世界ぜんたいを自らの手でさらにわからなくしてしまう。

 半世紀を越えたこの過程のなかで、国家観や国家像というものを日本は失った。国はあるのだが、その国はどのような国なのか、長期的な将来のなかでどんな国になりたいのか、世界のなかにどのような機能を担ってどんな位置を占めたいのかといったことに関して、主体的に考える能力を喪失した。日本という国の顔が見えない、日本は他国と口をきかない、日本は他国と真のつきあいをしない、日本には他国に提示出来るヴィジョンがない、という外からの批判を受けとめた日本は、みずからがみずからに向けておなじ批判をおこなった。国家観や国家像をすでに失っていた事実から発生してくる、これはじつにわかりやすい症状だった。

 ヴィジョンとは、国家観がしっかりとあった上で、将来に向けた長期的な戦略のなかに、国益と深くからんで、自画像のように浮かび上がってくるものではないか。国家観などなくてもいっさい不足を感じることもなく、いっこうに平気だったのは、会社が拠り所としてほぼ絶対だったからだ。勤めている会社のなかにすべてがあった。冷戦が終わるまではそれで充分だった。冷戦が終わるのと時期をほぼおなじくして、日本では会社が絶対ではなくなり、会社を軸にして組み立てられていた社会システムのあらゆる部分が崩れ始めたのは、興味深いところだ。

 アメリカとソ連。西と東。自由や民主と社会主義。世界はこういったことのなかに均衡していたのだろう。だからその陰に隠れて見えなかったものがたくさんあったし、見なくてもよかった、という側面も確かに存在した。冷戦は終わった。アメリカが世界で唯一の帝国のようなパワーとして残り、それに次ぐ準帝国とも言うべき位置に、旧ソ連はロシアとして前途不透明な居場所を得ることになった。ここから世界秩序の大きな再編成が始まった。冷戦が終わると同時にアメリカが唱えたニュー・ワールド・オーダーとは、新たな世界秩序そのものではなく、それの轟々たる再編成のことだった、といまになってわかる。

 ヨーロッパを見るといい。ここはいまEUというおおざっぱな統合のなかにある。これは明らかに準帝国としての統合であり、中心はドイツだ。歴史の深みを存分に持つヨーロッパは、その深みのなかを点検すると、将来という前方の謎を解く視点を手に入れることが出来る。その視点で読んだ世界の趨勢のなかに、準帝国として統合された自分たち、という像を見たのだ。

 冷戦後の十年を越える期間のなかで、中国にもおなじことが起きた。共産主義のままでの資本主義という、これまで世界に例のなかったかたちで、中国は急速に成長していった。経済成長に比例して、周辺諸国に対する中国の影響力は大きくなっていく。その影響力のなかにみずから入ることによって、自分の居場所と機能を確保しようとする国が、いくつもあらわれる。と同時に、成長し拡大していく中国を危険物として見る国々が、依然としてアジアのなかに残る。そしていまはさらにインドが、成長に応じて力をつけようとしている。

 世界に唯一の、帝国のような存在としてのアメリカ。そしてその下に、という言いかたは正しくないとして、帝国とならんで存在する準帝国のようなものとしての、ロシア、EU、そして中国、さらにはインド。これらの準帝国のあいだにはさまって、イギリス、カナダ、オーストラリア、そして中南米がある。イギリスの選択肢はEUとなるのだろうか。中南米はアメリカよりもEUとの関係を選ぶだろう。どの準帝国の周辺にも、小さな国がいくつもあることが共通している。こうした準帝国の配置は、じつは文明ごとの区分けであることも、すぐにわかる。電子からDNAまで、科学技術の開発とその現実への応用は、未知の分野への前進や開拓だけでなく、歴史の深部へも作用する。歴史の底へと降りてみると、自分たちとはなにかという、文明の問題がそこにある。

 パワーの均衡によって安定と秩序が維持される時代は、終わっているようだ。唯一の帝国と、文明ごとのいくつかの準帝国、そしてそれらの周辺に、小さな国々。再編成されていく世界秩序は、勢力の均衡によって保たれるのではなく、さまざまな部分が常に変動し、何重にも重なり合う関係が変動に対応して組みなおされ続けては、おたがいを結びつける利害の関係となっていく、というかたちをとる。このように再編成される世界を前方に見ると、中東は大きな課題としてまっ先に浮かび上がってくる。中東をどうすればいいか、と考えたアメリカが得たのは、大中東民主化構想というアイディアだったという。いまの中東を中心にして、北アフリカの西端からパキスタンまで。グレーター・ミドル・イーストとでも言うのだろうか。EUの中東ヴァージョンではないか。イラクの民主化というアイディアも、本来ならここに結びつけて機能させるはずのものだった。

 中国はその勢力圏がもっと拡大され、朝鮮半島や東南アジアほぼ全域に広がり、エクステンデッド・チャイナとなるのではないか。こうなっていく中国を受けとめることをとおして、アメリカは中国を準帝国の位置にとどめようとする。いまのままでいけば、日本はこの中国のなかに呑み込まれる。それにもなれない小さな国へと転落する、という選択肢もなくはない。アメリカが中国となんらかの取り引きをしなくてはならなくなったとき、日本が取り引き材料になる可能性だって、あり得ないものではない。

 日本と中国とは、基本的な質において相いれない、と僕は思う。だから無理はしないほうがいい。基本的に相いれないとは言っても、常に対立するわけではないし、関係は険悪なままである、ということにもならない。日本ひとりで中国を相手にするよりも、いくつかの国をまとめるにあたって日本が中心的な役割を果たし、そのいくつかの国のまとまりを巧みに利用しながら、中国との関係を計るのが賢明な方策ではないか。影響力を拡大させていく中国の、その影響力のなかに入らざるを得ないけれど、そのことがはらむ危険性を常に鋭く意識している国は、アジアにいくつもある。こうした国をおおまかにまとめて日本がその核となり、アメリカと中国とのあいだのどこかに位置し、アジアとのつきあいかたをアメリカに教え、アメリカの受けとめかたをアジアに教えていく機能を果たすなかに、自分にふさわしい居場所を確保する。これからの日本にとって、もっとも好ましい道はこれしかない。

 戦後の日本は経済に特化してここまでやってきた。アメリカによって戦後の日本へと広げられた最大の影響力は、自由と民主を中心にしたアメリカの価値観だった。技術立国や経済大国としての日本がその上に成立したものであることは、誰にも否定することは出来ない。日本においてはこのように機能した自由や民主を、普遍的なものとして中国に伝える役を日本が果たすことは、けっして不可能ではない。中国がそのようなことに興味を示すかどうかは、まったく別の問題だが。

 準帝国の中国がかかえる問題は、すさまじくやっかいだ。自由と民主はないままに、規模の力で世界の工場という経済を推し進める。自由と民主がなければ国の基礎は出来ないから、巨大な経済はじつは張りぼてであり、経済つまりかねで買えるものは軍備だけとなる。軍備は拡大され続け、中国がその周辺におよぼす影響力にそれは重なっていく。このような準帝国を日本はアジアのなかに安定させる役を果たさなくてはいけない。そしてそれだけが、日本にとっては生存と自尊心とを両立させることの出来る道だ。

 アジアやアメリカとのつきあい体験の、五十数年分の蓄積を日本はさぼってきた。だからいまほとんどゼロの地点からスタートする。日本が半世紀を越えてさぼってきたことそのものが、これからの日本にとってそれなりに生きていくための唯一の領域であるという皮肉としては多難でありすぎる状態のなかに、いまの日本は身を置いている。アメリカはいまのところまだ、世界にただひとつの帝国だが、やがてはその力は低下していく。イラクでの乱暴で杜撰な失敗ぶりは、低下への確実な第一歩だ。ほかのいくつかの準帝国と大差のない状態へと、後退していくだろう。そうなったときには、日米同盟はその意味をあらかた失うことになるはずだ。

底本:『影の外に出る──日本、アメリカ、戦後の分岐点』NHKブックス 2004年

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*「まえがき」より

影の外に出る

 二〇〇三年の夏が終わろうとする頃から、主として報道をとおして、次のような言葉がこの僕の目や耳にも、しきりに届くようになった。日本の主体的な判断。国益。対米協力。国際社会への貢献。イラク復興の人道的支援。非戦闘地帯。アメリカ追従。状況を見きわめる。隊員の安全には配慮する。テロとの戦い。秋が来てそれが深まっていくにつれて、これらの言葉が飛び交う密度はいちだんと濃くなっていった。印象としては、いわく言いがたい奇妙な違和感のある言葉ばかりだった。このような言葉によって、いったいどんな内容のことが、どのような人たちによって、どんなふうに語られ論じられているのか、僕が興味を抱くにいたった最初のきっかけは、僕がどの言葉に対しても感じた、たったいま書いたとおりの、いわく言いがたい種類の奇妙な違和感だった。

 考え抜かれた末のものであれ、ろくになにも考えてはいない結果のものであれ、人の口から他の人たちに向けて出て来る言葉というものは、その人がその問題に関して考えをめぐらせた証拠のようなものだ。こういう言葉で言いあらわされる思考とは、いったいどのようなものなのかという淡い興味を持った僕は、おなじような問題をめぐって自分でも考えてみることにした。考えた結果として、自分にはどのような言葉が可能になるのか。自分でも言葉を使ってみることによって、自分が感じている違和感の内側へ、多少とも入ってみることが出来るかどうか。

 この本に収録してあるいくつかの文章の最初のものには、二〇〇三年十月二十日の日付がある。文字どおりこの日に書いた、というわけではないが、この日付の近辺でまず僕はこれを書いた。誰に依頼されたわけでもなく、どこに対して責任があるわけでもない、自分ひとりだけのために書いてみるという、きわめて個人的な営みとしての文章だ。軽く読めるタイプのほんのちょっとした時評のような文章だ。そのように書きたいと思ったからではなく、こんなふうにしか書けないからという理由で、こうなっている。

 書き始めて僕は面白いことをひとつ発見した。気楽な文章であるとは言え、相手にする領域はたいへんに広い。日本国内だけではなく世界のいたるところで、時々刻々と発生してはただちにさまざまに変化しながら複雑に重なり合う事態、といったものぜんたいをカヴァーしなくてはいけない。ごく基本的な材料を手もとにためておくだけでも、作業としてはかなりの時間を必要とする。これはしかし当然のことだからそれでいいとして、問題はその奥にある。

 世界じゅうで時々刻々と発生しては変化していく事態がどこまでも続くのだから、そのなかに巻き込まれると、そこから出られなくなる。つきあいは際限なく続くから、たとえば文章を書く仕事をそこでするなら、どこまでも書き続けなくてはいけない。書くためには考えるのだから、こういう世界で仕事をする人たちはすべて、考え続けなくてはいけない。時々刻々に合わせて考えるだけでは足らない。そのずっと向こうを正確に見とおす視線で考える必要がある。

 考えることをどこかでやめると、考えを停止したことによってそこから先に発生するマイナスは、借金が雪だるま式に大きくなっていく、というようなことに例えることが出来る。思考を停止した人が最も陥りやすいのは、べきである、べきではないという、すでにその人のなかで出来上がって固定されている価値観によって、すべてを性急に裁断してしまうことだ。その人の価値観はその人の財産であり、少しだけおおげさに言うなら、それはその人の既得権益のようなものだ。これを守ろうとして活用される、べきである、べきではない、という価値観は、持続させることがもはや不可能なほどに効用のつきた制度であり、現在という現実に対して、これほど無力なものはない。


2004年 『影の外に出る──日本、アメリカ、戦後の分岐点』 アメリカ 戦争 戦後 日本 日米同盟
2016年12月28日 05:30
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