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わたしの片岡義男 No.6鳥嶋七実「不自由さのなかの自由」

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鳥嶋七実(とりしま・ななみ)さんは、文藝春秋の編集者。本文中にあるように、『恋愛は小説か』(文藝春秋)担当編集者でもあります。
感情が吸着される小説

 片岡作品との付き合いの長さは、往年のファンの人たちのように、とても長いものというわけではない。それまでも幾度か、断片的に出会っていたはずだったけれど、「出会った」と感じたのは、『木曜日を左に曲がる』(左右社)だった。「木曜日」と「左」という、からりとした言葉の掛け合わせが印象的で、曲がった先の景色を見てみたくて手に取ったのだと思う。


『木曜日を左に曲がる』表紙
『木曜日を左に曲がる』

 小説を読むとき何を選ぶかは気分次第といえばそれまでだが、いつしか自分の中でできた「読む基準」のひとつに、「感情引き出し型」と「感情吸着型」という分類がある。それはきわめて私的なざっくりとしたものだが、前者は読むと記憶のどこかがくすぐられて、喜怒哀楽が呼び起こされるような小説。泣きたいときに泣ける小説を読むような。一方で後者は、増幅されて収まりのつかない感情が心のうちにあるとして、その小説を読んでいると、するすると吸着されるような読み心地のものだ。どちらがいい悪いというのではないけれど、「感情吸着型」の小説に出会ったときの驚き、その読み心地はとりわけ忘れがたい。

『木曜日を左に曲がる』もそんな一冊だった。女性たちが主人公の短編7編。その心の動きが、時に弧を描きながら、時に直線上でステップを踏むように、すっと一点に収斂してゆく気持ちの良さがある。みなからっとした、フラットで大人な女性であることもあるのだが、人だけでなく生活する街との関係性もが彼女たちを形づくっていて、心の動きもその中にある、と感じられるところが素晴らしい。心は心の内だけにあるのでない、と思わせられる。

『恋愛は小説か』(文藝春秋)所収の作品を担当させていただいたとき(思えば震災のあった年)、その実感が強くあった。なかでも印象的なのが、『大根で仕上げる』(「文学界」2011年11月号掲載)だ。主人公の北沢三枝子は独身の26歳。20歳のときに両親が離婚して、物理学者の父はアメリカへ、母は娘を捨ててジェノバへ。以来、両親とはほぼ会わないままだが、これは「娘の自分よりも日本の問題なのではないか」と平然と受け止める、達観した風情の三枝子がすがすがしい。残ったのは不動産管理を通じた、恨み節さえないドライな父娘関係だ。そんな三枝子が、勤め先の喫茶店を家から徒歩5分の距離に発見したのは大学3年生のとき。淡々と美味しいコーヒーを入れ続けるルーティンともいえる生活。でもその無駄のなさに、感情の染み出さない端正さに店主をはじめ見ほれる者は多く、家と店の行き来と、その線的な動きの中に、読むものの背筋も伸びる思いがするのだ。しかし、気持ちがふっとほぐれる瞬間を、このタイトルの台詞がとらえる。


『恋愛は小説か』表紙
『恋愛は小説か』

 片岡さんは、『言葉を生きる』(岩波書店)のなかで、小説を書くときに、書きたいこと、が先にあるのではなくて、「これ」という書ける断片が見つかることがまず必要だと書かれている。そうして手にした小さな断片の結びつきの妙が小説を形作っていくのだが、展開を作るのは「主人公たちの思考とアクション」、つまり、論理なのだという。そして、最初の「これ」が手に入ったときすでに、生まれる物語の固有の論理はそのうちにあるのだと。片岡作品を読んだときの読み心地、感情がすっと吸着されるような感覚の秘密は、まさにここにあるのだと思った。必然的に定まる軌道。片岡さんは、幾重にも重なり合う不自由さ、とその小説の生まれる地点を表現されてもいるけれど、不自由さのなかの自由、が主人公たちに宿り、読む人たちの心を別のモードへと移してくれるのだと思う。

文藝春秋|編集者 鳥嶋七実

今回の一冊 電子版『彼女、三十五歳、独身』(1993年)

 鳥嶋七実さんの文章にあるような「フラットな大人の女性」を感じさせる一篇として、『彼女、三十五歳、独身』を選んでみました。

『彼女、三十五歳、独身』表紙

自立した35歳の独身女性が二人
キャッチ・ボールが力を与えてくれる

インタヴューされる舞台女優。するのはライター
二人はその前に、偶然に、あざやかに遭遇する
身体を使った実際のキャッチ・ボールで、
それぞれの過去と未来を確かめる

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2018年2月20日 00:00

わたしの片岡義男

不定期更新。作家、ライター、編集者……さまざまな立場から片岡作品への思いを語っていただきました。読んだことのある作品でも違った面が見えてくるかもしれません。