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わたしの片岡義男 No.5小池昌代「未完の詩」

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小池昌代(こいけ・まさよ)さんは、詩人、小説家。詩集に『永遠に来ないバス』(第15回現代詩花椿賞)、『もっとも官能的な部屋』(第30回高見順賞)、小説に『たまもの』(第42回泉鏡花文学賞)などがあります。
読まれてこそ詩になる

 その人は、〈よき声〉を持っていて、いつも低い位置から静かに語りだす。声には響きと深みがあり、受けとる側の深い部分にまで達した。めったにない浸透力を持った声だ。

 語りだす前には小さな間があって、内容よりも、むしろその間のほうを、なぜかわたしはよく覚えている。

 一般の音楽会でもそんなことがある。最初の音が鳴る、その手前には、気高い無音の沈黙があり、それを聴衆が一瞬にして深く共有すると、音はそこを、乗り越えて出る。そして闇のなかを突破していく。

 その人の作る「場」には、実に不思議な力が働いていた。彼を中心としながらも、一人が君臨しない、真に自由な空気があった。話の内容には、耳を傾けるべき何かがあり、笑いが絶え間なくおこり、そして発見にも満ちていたのだったが、何を聞いていたのか、わたしはまるで覚えていない。覚えているのは、繰り返すけれども、「声の姿」で、その語り口にこそ、その人がおり、その人が書く文章までもが透けてみえてきた。

 2015年3月1日付の日経新聞朝刊に、その人、片岡義男は『読まれてこそ詩になる』という一文を書いた。

 わたしは眼を覚まされたように感じ、その切り抜きを今も持っている。書き出しは、「梅雨を飛び越して夏になったような日だった。あと数日で雨の季節になるとは、とうてい思えないままに真夏の気持ちで一日を過ごし、夜の八時に僕は新宿にいた」。

「僕」は編集者との約束で、待ち合わせ場所として指定されたゴールデン街のバーへ向かっていた。約束の時間まで、だいぶあった。そこで界隈の迷路を歩くことにする。

 ある一軒のバーを通りかかると、「ドアが開いて客が出て来た。ドアが開いていたあいだだけ、TVの音声で、『骨まで愛して』という歌が聞こえていた」。同じように、店々の前を通るたび、なかから音楽が聞こえ、やがて「僕」は、道に立ち止まって聞こえてきた曲のタイトルを手帳にメモしてみる。「骨まで愛して」のあとは、「ブルー・シャトウ」、「パープル・ヘイズ」「イエロー・サブマリン」……まだまだたくさんある。最後の通路で、「ごめんねジロー」ほか五曲を加えると、全部で十八曲。

 書きとめる「僕」の姿を見ていた「姿のいい女性」がいた。近づいていってみると、そのひとは女性でなく男性だったが、「なにを書いていたの?」と「僕」に問う。「僕」は「詩を書いていました」と答えてみた。「答えてみた」というのがいかにも片岡義男らしい。ここからのやり取りは、すべてを引用したいが、それはかなわないから、原文を読んでほしい。「読ませて」という彼女と、「詩」と言ってしまったことに軽く後悔する「僕」。黙っていると、彼女が「底なしの優しさで」言うのだ。

「人に読んでもらって初めて、それは詩になるのよ」

 わたしはなんだか泣きたくなってしまった。ここを読むたび胸がいっぱいになる。詩が生まれる生成過程の途上に、自分が立ち会っているような気がするからだ。「詩が生まれる」まさにそのことが内容として書かれながら、同時に、この文章そのものも生成途上にあり、刻々と、生きて、書かれていると感じられる。「僕」は、実際、ゴールデン街の迷路を歩き回りながら、曲のタイトルを書きとめた。その足取りもまた、一行、また一行と、詩が、そしてこの文章が、書かれていくリズムに重なっている。

 曲のタイトルを、ただ羅列した「僕」。そんなものは詩ではないと否定するのは簡単だが、わたしもまた、まだ書いてもいない詩集の、タイトルだけを書き連ねていくことがある。そのときの不思議なよろこび。想像上の「目次」だけれど、目次もまた、一篇の詩なのだと言ってみたい。詩とは確かに、そうして何らかの時間を生きた一行が、偶然、出会い、隣り合って続き、一つのかたまりを形作っていくものだ。

 だがそこに力点はない。ポイントは、それがまだ誰にも読まれていないというところだろう。まだ誰にも読まれていないのだから、そのメモ書きは、かつて室生犀星が活字になる以前の詩について言ったように、蝶に孵化する前の毛虫のようなものだ。「詩」とは呼べない、なにものかなのである。だからそれを彼女は、「それ」という代名詞で指すしかなかった。彼女もまた、なんという正確な言葉の使い手だろう。

 結局、「僕」は、それを見せる。すると彼女は真剣に読み、「お店にもいろんなレコードがあるから、面白い題名を探しては聞いてみましょうよ。ついでに、一杯だけ飲んでって。この店だから」と背後の店を示した。詩の続きを、店で飲みながら書けというのだ。粋で優しいセリフだけれど、情だけに寄りかかったものでなく、詩の本質を理解し、営業利益にもかなったものになっている。片岡義男の小説に、そのまま出てきてもおかしくない人物でありセリフだ。

 編集者との約束の時間まで、「あと三分だった」。そのあと数行を加えると、この文章は終わる。だが、わたしはいつまでも文章が終わらない気がした。いまもまだ、終わっていないと感じる。「僕」が「彼女」に見せたという未完の「詩」が、文章の背後で、ずっと息づいていると感じられるからだろう。彼と彼女以外、誰も見たことのない「それ」は、今もまだ死んでいなくて、誰か(その一人に、わたしもなりたい)の背中を押し、続きをきっと書かせていく。

「人に読んでもらって初めて、それは詩になるのよ」

 これは片岡義男の内なる声かもしれない。だがそれが、ある日ふいに、外側から他者の声としてやってきた。深い声の持ち主は、他者の声にも優れて敏感で、それを的確に拾い上げる耳を持っていた。読者と作家の遭遇の一瞬。作家の作品を世の中へ押し出す、ポンプのような声だとも思う。

 ゴールデン街の路上。片岡さんが描き出した48年前の光景は、ある抽象性を帯び、永遠のものになって、2015年の新聞に閉じ込められている。取り出して読めば、いつでもその一瞬を、わたしたちは解凍できる。そして、読む「わたしの一瞬」をもって、「読まれてこそ詩になる」の一文も、そのたびに新しく、「長い詩」になる。

詩人/小説家 小池昌代

今回の一冊 電子版『ワン・キッス』(1989年)

 今回の小池昌代さんの文章の中にあるような、夜の東京での偶然の出会いを描いた小説として、例えば『ワン・キッス』があります。

『ワン・キッス』表紙

「彼女」と「彼」はいつも偶然に出会う
ワン・キッスは、最後のキス

夜の酒場とジュークボックス
帰る家がない、という出来過ぎの偶然
夜の東京を歩き、自転車でさまよう
そしてまさかの、最後のキス

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2018年2月13日 00:00

わたしの片岡義男

不定期更新。作家、ライター、編集者……さまざまな立場から片岡作品への思いを語っていただきました。読んだことのある作品でも違った面が見えてくるかもしれません。