「あなたの戦後」投稿が届きました
片岡義男ドットコムでは現在、特集「僕の戦後、あなたの戦後」を公開しています。特集公開にあたり、読者の皆さんにも「あなたの戦後に関するメッセージをお送りください」と呼びかけたところ、いくつかのメッセージをお寄せいただきました。こちらのページで随時公開してまいります。
■瀧 昌史さん(『バイカー春秋』編集長)
自分は終戦16年後に静岡県静岡市で生まれました。既に戦争は昔話でしたが、まだ街のそこかしこに戦後があった気がします。小さな頃、祖父と父がやっている工務店が近所にあり、よく昼前に近くのフライ屋まで職人さんのお昼の買い物を言付かりました。フライ屋はバラックで、一角に露天の小さな揚場があり、そこで坊主頭のおじいさんが白衣でひとり、朝から夕方までフライを揚げています。そのおじいさんは全く喋らず無表情。話しかけても目も合わせません。「戦争でおかしくなった」「声をきいたことない」「まだ40前らしいけど見えないねぇ」と噂になっていました。その日もおつかいに行き、揚場のフライを下から眺めていたら、フライの上にあるおじいさんの目と目が合いました。するとおじいさんはニッと笑ったのです。それはすぐには笑顔だとは分からないほど複雑な表情の変化で、意外でもあり驚きましたが、確かに笑みでした。戦争が笑った、と思いました。
■長谷川智則さん
「日本は負けた。でも、俺たちは生きている」
私が子供の頃、大日本帝国海軍艦艇に乗船していた祖父の兄から聞いた話です。
終戦間近、俺はアメリカ海軍の攻撃を受け、沈みゆく戦艦の甲板で仰向けに倒れていた。
大きな爆発が近くであって、耳がよく聞こえない。
爆撃の破片が右肩に刺ささり、体が思うように動かない。
戦艦は傾きはじめ、沈むのだと直感的にわかった。
戦艦の中が燃えているのか、甲板が熱された鉄鍋のようになり、背中が焼けるように熱かった。
このまま死ぬのだろうと、煙の上がる真っ青な空を見て思った。
自分が死ぬ時、何を思うのか、徴兵された時ふと考えたことがあったが、実際、死に際に立つと、何も考えられ無かった。
気がつくと、俺はボートに横になっていた。
運良く、救助されたようだった。でも生きた心地はしなかった。
その後日本は戦争に負けた。
でもな、俺たちは生きているんだよ。
このとき『俺たちは生きてる』と言った伯叔祖父の顔が、なんとも言えない複雑な表情だったことを、子供ながらに感じました。
■黒田 暁さん
今年37歳になる私にとって、肌で感じた戦争というものはない。9.11だって、湾岸戦争だって何もかも海の向こうの話だ。戦争直撃世代となると祖父母になる。戦争の話は祖父母から聞いていたように思っていたが、よくよく思い返してみると戦争の話を祖父母から直接聞いたことは親伝いで聞くことが多かった。
母方の祖父母の家族たちは戦争で亡くなった人が多い。父方の祖父はシベリアで抑留されていたらしい。「戦後強制抑留のご労苦に対し哀心より慰労します 内閣総理大臣~~」と書かれた賞状を見たことがある。
やはり、誰しも思い出して辛い話をするのは好きじゃなかったのだろう。本人たちは孫である私には戦争の悲惨さなどを語らなかった。こうやって若い世代は戦争を忘れ、遠い世界の話だと思うようになるのだろう。
今なおウクライナでは悲惨な戦争が続いている。この戦争を遠い世界の話だと思わず、何が起きているのか今一度見つめ直したい。ウクライナにも終戦の日が早く来ることを心から願っている。
■萩野正昭さん
戦後といえば、わが家でいの一番、この話が出てくる。
召集で戦地に送られた父が帰ってくる。そのはず。帰らないことも覚悟する。でも何もわからない。どんな思いで、這這の体(ほうほうのてい)でたどり着く故国だろう。歩いてくるのか、目指す故郷。でもわが家は見当たらない。見わたすかぎりの焼け野原なんだ。せめてもと看板を立てる。「お帰りなさい、家族はここにいます」と。でも甘い。看板は即座に誰かに持ち去られ、燃料の一部と化す。そこに書かれている文字を何と思う。文字を思う余裕はない。失うことの底なしの深さを体験する。この絶望こそわが家の戦後であった。
焦土と化した東京。本所区松坂町・元町(現在の墨田区両国)付近で撮影されたもの。右上にある川は隅田川、手前の丸い屋根の建物は両国国技館(写真:Wikipediaより転載)
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2022年8月8日 18:00 | 片岡ニュース