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町にまだレコード店があった頃(1)

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 町にまだレコード店があった頃、そしてそれらのレコード店でLPをしきりに買っていた頃、僕はときどき歌謡曲のLPも買った。かつて全音の『歌謡曲全集』で見つけて気に入ったいくつもの歌のタイトルを、僕は記憶していた。レコード店へいき、記憶しているタイトルを店主に告げ、オリジナルの歌い手は誰であったか教えてもらう。そのレコードをシングル盤で探す。あれば買う。そして聴いてみる。

 そのようにしてオリジナルを聴いていくと、ほかの歌手が歌ったものも聴いてみたくなる。そのために僕は、自分が記憶しているタイトルの歌が何曲か収録してあるLPを、歌手が誰であるかは関係なく、ときどき買った。『歌謡曲全集』で見つけて好きになった歌が三曲ほども入っているのを見つけたなら、僕はほぼかならずそのLPを買った。

 いつの間にか、LPは何枚にもなった。なににせよ自分の手もとにはなにも残らないのが、僕の特徴のひとつだ。たまったLPも、多くは散逸してしまった。人にあげたり、貸してそのままになったり、とにかく身辺からなくなってしまう。しかし、残っているのも何枚かある。ひとまとめに置いたその場所で、そのまま年月が経過した結果だ。とっておいたわけではなく、ただ残ったのだ。

 いまでもときどき、歌謡曲のCDを僕は買っている。『歌謡曲全集』で譜面を読んでいたときとおなじ質の興味が、いまでも継続しているからだ。手もとにある歌謡曲のCDやLPをひとまとめにして見渡してみると、自分がなにをどう聴いたかがわかる。なにをどう聴いたかとは、僕はなにが好きかということであり、そのことはさらに、僕はいったいなになのか、ということにつながっていくはずだ。

『星影の小径』というタイトルの、ちあきなおみのLPがある。「星影の小径」という歌が入っていて、それがLPぜんたいのタイトルともなっている。「星影の小径」の一曲だけのためにこれを買った記憶が、僕にはある。「星影の小径」という歌は、全音の『歌謡曲全集』で知った。傑作中の傑作だ、と僕はいまでも思っている。

 たいへんにロマンティックな歌だ。編曲、そしてちあきの歌いかたは、この歌の良さを壊していない。彼女はきれいに情感をこめて歌っている。インスタント・コーヒーのTVCMに使用されたという。LPがあった頃にはシングル盤もあった。TVのCFで聞いたあの歌のレコードをください、と多くの人が買いに来たのだろうか。

 この歌の良さとは、ひとつの視点からひと言で言うなら、いまという時代からの充分すぎるほどの遠さだ。余計なものがほとんどなかった時代の、したがって、精神活動がまだおこなわれていた時代の、都会情緒というフィクションの、最高到達点の一例だ。

 いまは余計なものがありすぎる。身のまわりにあるものをさばくだけで、人は多忙をきわめる。がさつになる。乱暴になる。精神活動など要求されないから、停止したままとなる。都会情緒のフィクションなどに、人はなんの用もない。身のまわりの三流の現実との対応で手いっぱいであり、世界はそれだけだ、そしてそれ以外にはなにもない。「星影の小径」という歌の良さを知るには、そのような現代もまた好機だ。

『八代亜紀 服部メロディを歌う』というCDは、本来なら愛聴盤のひとつとなるはずだが、曲の良さがぜんたいにわたって壊されている。曲の良さが壊されているとは、八代亜紀といういい歌い手を、曲に接近させず逆に遠ざけている、ということだ。その作業にこのCDは見事に成功している。

『八代亜紀オリジナル・ベスト』というLPが残っていた。なぜこれが僕のところにあるのか。ジャケットに写真として印刷してある若い彼女をしばし見つめていると、やがて僕は思い出す。少なくとも見た目には完全に女性になりきっている、とんでもない美貌のゲイ・ボーイがかつて僕の知り合いのなかにいた。その彼が、あるいは彼女が、自分を女性として作っていくとき、八代亜紀は大切なお手本になる、と語った。日本にはきわめて少ない、ひょっとしたら唯一のお手本だ、とも彼は言った。それに反応して僕がすぐに買ったのが、このLPだ。オリジナルのなかのベストならそれに勝るものはない、と僕は思ったようだ。

 ジャケットの八代亜紀を僕は鑑賞する。じつにいい。女性美のひとつのありかたを、なるほど、彼女は完璧に近く体現している。ジャケットの裏にも写真がある。表のとおなじ日の、おなじセッションによる写真だ。口紅を替えれば良かったのに。裏の写真では、もっとまっ赤な口紅にすると、さらに映えたはずだ。

 オリジナルのベストが、このLPのなかに十曲ある。僕はそれらを聴いてみる。「なみだ恋」や「もう一度逢いたい」が、たいへんいい。前者の舞台は新宿だ。そして後者は、ありそうでじつはどこにもない港町を、背景にしている。言葉づかいがかもし出す情緒的なイメージ、描かれている主人公の女性の感情やありかたなど、すべてがかたちどおりだ。フォームもここまで固めると、ぜんたいはあるときふと、別の次元に入っていく。抽象化、と言っていいような次元だ。

「なみだ恋」の世界は、字面どおりに追うなら、逢えばせつない別れがつらい、なぜか今夜は帰したくない、という世界だ。「もう一度逢いたい」では、あんな男と言いながら今日も来ました港町、と主人公の女性は言っている。どちらの歌も、最後まで聴いていくと、すべては夢のような場所での出来事であることが、はっきりとわかる。つらい、せつない、逢いたい、愛してる、というような感情がひたすら循環しているだけで成り立っているという、ちょっとほかに例のないようなユートピアだ。

 リズムと言うべきかテンポと言うべきなのか、かなりせっかちにそれは前のめりだ。かたちどおりの感情を循環させてユートピアを作っていくとき、前のめりになったほうが自他ともにより良く説得できる、ということだろう。喉のあたりで自分が自分を引っぱっていく感じがする。「なみだ恋」と「もう一度逢いたい」に関しては、それぞれカラオケがこのLPに入っている。それを聴いていると、前のめりはさらに切実に体感できる。

『ゴールデン・スター特選デラックス 美空ひばり特選集』というタイトルのLPもあった。ひばりのLPは一枚だけ持っている、とさきほど(※「波止場通りを左に曲がる」『音楽を聴く』第3部所収)書いたのを僕はここで訂正しなくてはいけない。オリジナルの録音、そして業界では吹き直しと呼ばれている、当人による後日の再録音が、このLPには混在しているらしい。再録音したのはひばりが三十代なかばの頃だろうか。オリジナルにはなかった良さというものを、「ひばりのマドロスさん」「東京キッド」「悲しき口笛」で僕は体験することができた。幸運にも編曲が良かった。見当違いの細工をほどこしてもとの曲の良さを壊してしまう、ということがそこにはなかった。

 牧村三枝子のLPも残っていた。それを僕は見つめる。買った動機を、僕は思い出そうとする。やがて僕は思い出す。僕はかつてFM局で週に一度、深夜に二時間の番組のホストのようなことをしていた。内容は僕の自由であり、十二年間にわたって僕はその時間を楽しんだ。牧村三枝子のLPを買ったのは、女性の名が歌詞のなかに出てくる歌を集め、それを特集のようにして番組でレコードをかけよう、と思いついたからだ。

「そんな夕子にほれました」や「おゆき」などを、このLPのなかで牧村三枝子は歌っている。「昔の名前で出ています」もある。この歌のなかにも、女性の名が出てくる。主人公の女性は、京都にいるときは忍という名だった。神戸へ移ってからは渚という名にした。そして横浜の酒場に戻ってあなたを待つようになってからは、ひろみとなった。ひろみという名は、おそらく彼女の本名だろう。あなたのボトルにあなたの似顔を描き、ひろみの命、と彼女は書き添えたという。

 女性の名が出てくる歌は、数が少ない。探しているとすぐに、「愛ちゃんはお嫁に」あたりまで、さかのぼってしまう。愛ちゃんは、愛という名の女性だろうか。愛子かもしれない。愛美というような名を、愛ちゃんと呼んでいる可能性もある。愛江、ということだってありえるだろう。「銀座の恋の物語」にも、女性の名は出てくる。僕の記憶では、歌詞のずっとあとのほうになって、それはふと出てくる。なんだ、こういう名だったのか、と僕はいつかどこかで思ったことがある。女性の名の出てくる歌の特集は、成立しなかった。

 祐子と弥生のLPもあった。これはなにのために買ったのだろうか。収録してある曲名を見ていくと、買った理由はすぐにわかる。「ソーラン渡り鳥」を聴いてみるためだ。この歌はこまどり姉妹の歌だ。おなじ歌を別のトゥインズがどう歌ったか、もう何年も前、僕は聴いてみたいと思った。

 大学生だった頃のある年の夏、僕は東京湾フェリーで何度も東京湾を往復したことがある。何度乗っても、船内でかかる歌はレターメンの「ミスター・ロンリー」だった。夏のあいだだけの船だ。館山から竹芝桟橋まで帰ったときは、船内で「ソーラン渡り鳥」のレコードが何度もかかった。そして竹芝では、夏にちなんだなにかの催し物がおこなわれていて、野外の特設ステージでこまどり姉妹が歌うのを僕は見た。ふたりとも若い頃のエリザベス・テーラーにそっくりだ、と僕は思った。

 そのときいっしょにいた友人と夕食を食べたとき、僕はこまどり姉妹について自説を述べた。彼女たちは歌謡曲というぜんたいのなかのひとつではなく、彼女たちふたりだけでこまどり姉妹というひとつのジャンルを形成している、というのが僕の説だった。この説はいまでも変わっていない。残念なことに、友人は関心を持ってくれなかった。

 こまどり姉妹は独立したひとつのジャンルだと僕が言う根拠は、彼女たちのいわゆる人生経験が、たとえば僕にくらべると、ある方向に向けて桁違いに深い、という事実にある。そしてそれは、彼女たちにとっては強力この上ない立脚点であり、彼女たちの歌はその上に成立している。そのとき、「愛嬌えくぼで苦労を隠し、越えたこの世の山川いくつ」というような歌詞は、こまどり姉妹そのものとなる。祐子と弥生の「ソーラン渡り鳥」には、質のまったく異なった魅力があった。彼女たちのLPには、「月がとっても青いから」という歌も入っていた。これは『歌謡曲全集』でかつて僕も見つけたいい歌だ。

(2)につづく

(『音楽を聴く』第3部「戦後の日本人はいろんなものを捨てた 歌謡曲とともに、純情も捨てた」1998年所収)

町にまだレコード店があった頃

   2月24日|町にまだレコード店があった頃ー1
   2月25日|町にまだレコード店があった頃ー2
   2月26日|町にまだレコード店があった頃ー3



1998年 「戦後の日本人はいろんなものを捨てた─歌謡曲とともに、純情も捨てた」 『音楽を聴く』 こまどり姉妹 ちあきなおみ レコード 八代亜紀 戦後 歌謡曲 美空ひばり 音楽
2016年2月24日 05:30
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