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タイプライターの追憶

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 この写真は、僕が愛用しているタイプライターのうちの一台を、真上から撮影したものだ。ごく普通の普及品のタイプライターであり、デザインも普通だ。しかし、これはこれで充分にきれいではないか。いまこの文章を書いている日本製のワード・プロセサーを被写体にして、おなじような写真を撮る気に、僕はなれない。ごく普通の普及品のワード・プロセサーだが、デザインはまったくきれいではないからだ。

 余計なものをすべて削り落とし、機能と使いやすさに徹した、基本にごく忠実なこのタイプライターのデザインは、結論をごく簡単に言うと、客観あるいは普遍だ。だからそこには、ある程度以上の美しさがともなう。見とおしのいい、すっきりとした、邪魔のいっさいないデザインだ。

 この写真とほぼおなじ写真を、僕はかつて自分の文庫本の表紙に使ったことがある。『タイプライターの追憶』というタイトルの小説だった。文庫の表紙に充分に耐えていた。写真がではなく、タイプライターのデザインが。

 いま僕が使っている日本製のワード・プロセサーのデザインは、これが僕の愛用しているものです、と人に見せたくなるような気持ちのけっして起きない、なんとも言いようのないみじめなものだ。どうしてそうなるのか、さきほどとおなじく結論を簡単に言うと、デザインが主観にとどまっているからだ。それも、きわめて浅い主観のなかに。

 浅い主観と言ってわかりにくければ、製作者たちのそのときその場での都合、と僕は言い換えよう。主観も徹底すれば客観に到達するのに、そのための作業はなぜかおこなわれない。

 一定の時間内での一定以上の効率を維持するためには、浅い主観の上を次々に滑走していくほうが効率的だからにちがいない。浅い主観というものは、それが有形であれ無形であれ、おしなべて醜い。

(2016年5月6日掲載、『昼月の幸福ーエッセイ41篇に写真を添えて』1995年所収)


『昼月の幸福ーエッセイ41篇に写真を添えて』 ワード・プロセサー
2016年5月6日 05:30
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