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考えるとはなになのか

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 頭は生きているうちに使え、という言いかたはいつ頃からあるものなのか。最近はあまり聞かないように思う。僕が子供の頃、大人たちはなにかあればこう言っていた。頭は生きているうちに使え。なるほど。生きるとは頭を使うことか。

 ただしこの文脈で言うところの生きているうちとは、日常のなかで現実的なルーティーンをこなす日々でしかないし、したがって頭を使うとは、ルーティーンのもっとも効率の高いこなしかたのみを、意味している。そこでは答えはとっくに見つかっている。立ちあらわれる状況へ、その答えを次々にあてはめてはなぞること。使う頭とはその程度のものだ。

 生きているとは、ではいったいなになのか。頭を使うとは、どういうことなのか。すでに出ている答えをあてはめていくだけのなかに、果して自分はあるのかどうか。そして自分とはなにか。なぜ自分なのか。なぜここにいるのか。なぜ自分ひとりなのか。ほかの人ではないのは、なぜなのか。こういったことを子供の頃には疑問に思う。ほんとうに不思議だ。いくら考えてもわからない。だから大人に訊いてみる。相手にしてもらえない。笑われる。馬鹿、と言われたりもする。だからそのような質問を自分の内部に押さえ込み、大人になる途中で忘れてしまう。

 生きるとはなにか。自分とはなになのか。答えはないから、適当なところで考えを切り上げるのはその人の自由だとして、考え続ける自由もあるからそちらを選ぶと、生きることとそれについて考えざるを得ない状態とのあいだの、つながりが見えてくる。

 生きるから考える。考えるとは生きること。より考えれば、より生きることが出来るのではないか。考えないままに日を送ると、生きているとは言いがたい状態を、生きていくことになるのではないか。より良く考えると、よく生きることにやがてはつながる、と考えてそれを続けると、どんなことになり得るか。昨日にくらべて今日はほんの少しだけましである、というようなことになるかもしれない。より良く考えるとは、どんなに少しずつであるにせよ、自分がより良き存在となっていく過程の、刻一刻だ。

 自分にとって少しずつより良き存在となっていく自分とは、なになのか。自分の考えを自分で作り出していく自分だ。自分の考えが生まれれば生まれるほど、自分はより自分になっていく。そしてその自分は何かというと、なにを言うんだちょっと待てとか、それはおそらく違うからもっと考えようなどと、誰に対しても、なかでもひときわ自分に対して、常にかならず言うことの出来る自分だ。いまあるものを少しだけでもいいからより良くしていくためには、いまあるもののありかたを知り抜いた上で、良くない部分がまず批判されなくてはいけない。批判する人のひとりが自分であるなら、その自分は、批判の精神や懐疑の念などを、自分を相手に鍛え続ける必要がある。生きるとはこういうことであるようだ。そして考えるとは、じつはこんなことなのだ。生きざるを得ないから生き、生きるにあたっては考えざるを得ないのが、自分という人だ。

(『自分と自分以外ー戦後60年と今』2004年所収)


2004年 『自分と自分以外ー戦後60年と今』 自分
2016年3月22日 05:30
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