アイキャッチ画像

人は誰もが物語のなかを生きる

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

 僕はいろんな種類の文章を書いている。小説もあればエッセイもある。評論のような文章もたまには書くし、最近では詩の本も一冊書いた。しかし、書いている当人である僕の目で見ると、自分が書く文章はすべて物語だ。すべてはストーリーだ。どれもみんな小説だ。

 小説を書くことが僕の仕事のようになっている。当人にとっては仕事ではなく、趣味や遊び、あるいは娯楽のようなものだ。いろんな言いかたが出来るだろうけれど、もっとも誤解が少なくてすむはずだと僕が思う言葉を使うなら、小説を書くことは僕にとってはゲームだ。自分で考えて自分自身に対してしかけて遊ぶ、相当に楽しいゲームだ。

 相当に楽しいからこそ、少なく見積もってすでに15年も、僕はそのゲームを楽しんでいる。これからも楽しむはずだ。そしてそのゲームを楽しむにあたって僕が使っているものは、ゲーム・ソフトでもなければゲーム用のファミコンでもない。僕が使っているのは、言葉だ。具体的に範囲を小さくしぼった言いかたをするなら、僕は活字を使って、物語というゲームを物語の書き手として、楽しんでいる。

 自分自身が直接に体験したことを、そのままひとつのストーリーとして書いてしまうことは、少なくとも僕の場合はあり得ない。昨日あったことを今日は原稿に書くという態度を、僕はまったく好かない。そして、完全に空想だけの物語を書くということもまた、あり得ない。完全な空想というものは存在し得ないと僕は思っているからだ。

 どこでヒントを得るにしろ、どこからきっかけを拾ってくるにせよ、とにかくいろんなところでさまざまにきっかけや材料を手に入れておく僕は、ある日のこと、ひとつの物語の発端を思いつく。その物語は、僕の頭のなかで次第に広がっていく。立体的に進展していく。

 ひとつのストーリーとして成立し得るまでにアイディアが組み上がったなら、僕はそのストーリーを言葉を使って紙の上に書くことになる。頭のなかで考えているときも楽しいけれど、書くというゲームはもっと楽しい。頭のなかに出来上がったストーリーを、言葉を使って書いてみるというゲームだ。書きはじめるときは、自分で作ったゲームを自分で遊んでみる楽しさを引き受けるときだ。うまく遊べるかどうか、保証はどこにもない。遊んでみるほかない。うまく遊べたなら、その結果として、一編の物語が活字によってそこに生まれている。

 僕の物語の書きかたは、写実的だといちおう言っていい。現実をそのままに写していく書きかたでは絶対にないけれど、写実的あるいは映像的であることは確かだ。人間はきわめて視覚的な生き物であり、僕もおなじ運命のなかにいるから、たとえば言葉を使ってストーリーを書いていくとき、そのストーリーを僕は頭のなかに見ている。

 僕が一編のストーリーを書きはじめるとき、そのストーリーは一本の映画のように、頭のなかではすでに完成している。僕の好みのとおりに出来あがっているその映画を、僕は頭のなかで映写していく。映写されるとおりに、自分に使い得る範囲内の言葉を使って、僕はその映画を描写していく。

 書き終わったとき、そのゲームは早くも過去だ。雑誌に掲載されたり本になったりする頃には、当人にとってそのゲームは完全に大過去でしかない。おなじゲームを二度遊ぶことはない。おなじストーリーを二度書いても、誰も受け取ってはくれない。だから僕は、似てはいてもまったく別のゲームを、どこかにさがしはじめる。

 現実というものは、どんな人にとっても、まったく脈絡なしにばらばらに存在している。次々に身のまわりに起きてくる現実に、たとえば僕なら僕をあらかじめ想定した上での統一感など、まるでない。しかしばらばらな現実のなかでは、人は生きていくことが出来ない。だから人は現実の断片をならべなおし、整理し、修正し加工し、適当に飾って組み立てなおし、自分というひとつの物語を居心地よく作り、その物語のなかを生きていく。

 だから人の人生はすべてゲームだ。そのようなゲームがありながら、さらに僕は物語を書くというゲームを、一見したところ仕事のようにして、日々を送っている。

 僕が言葉を使ってストーリーを書いていくときに感じる楽しさとはなにか、ひと言で言うなら、それは現実の世界という空間と、抽象的にわたり合うことの楽しさだ。抽象化の楽しさを子供の頃の読書で身につけた僕は、日本語のほかに英語も母国語として持つという環境のなかで、抽象化という思考のトレーニングの面白さを知った。

 抽象化によって構造にいどむという思考のトレーニングは、未知の世界をめざす。理論としてそうならざるを得ない。未知の世界をめざすとは、現実べったりの身のまわり主義を離れ、ちっぽけな体験世界の外へ出ることにほかならない。

 未知の世界につながるおそらく唯一の道は、言葉によって作られる道だ。その道を歩いていくことは、新しい思考を自分の頭のなかで試みることだ。たとえば僕なら、言葉による表現をとおして、現実のはるか彼方を先取りすることが可能だ。このような作業のなかにある面白さには、ほかのどのようなゲームも、遠くおよばない。この面白さの可能がなかったなら、ストーリーを書く作業は、この話はここからこうはじまり、やがてこうなり、最後はこんなふうになりました、ということでしかないのだから。

底本:『アール・グレイから始まる日』角川文庫 1991年


1991年 『アール・グレイから始まる日』 エッセイ ストーリー 小説 書く 物語
2015年10月25日 05:30
サポータ募集中