アイキャッチ画像

渋谷から京橋まで眠る

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

 自宅からバス停留所までものの三分だ。バスで渋谷まで、普通は十五分だ。十分おまけして、二十五分か。そして渋谷から地下鉄・銀座線で京橋まで、二十五分。五分おまけして三十分。京橋から昭和通りを越えて会社まで、早足で歩いて七、八分だから十分として、自宅から会社までの所要時間は、合計で六十五分。

 ちょっと少ないような気がした。もっとかかるだろう、と僕は思った。渋谷でバスを降りてから地下鉄に乗り、その列車が発車するまでに、十五分はかかるのではないか。これを合計に加えると、一時間二十分だ。さらに十分のおまけをして、トータルは一時間三十分。

 これだけあれば、定時である九時に余裕を持って、会社に到着することが出来るはずだ、と二十二歳の僕は思った。そして四月一日。会社のすぐ近くにあった、新入社員研修会場に着く定刻である午前九時から逆算して、午前七時、目覚まし時計の助けを借りて無理やりに、僕は目を覚ました。

 食事をしてしたくを整え、僕は七時三十分に自宅を出た。バス停まで歩き始めた。その一帯の住宅地のなかには、不規則な碁盤の目に道があった。自宅からまっすぐにおもての道へ歩けば、そこから少しだけ斜めにずれた位置に、バス停があった。

 その朝の僕は、なぜだかまっすぐには歩かず、碁盤の目に交差する道ごとに角を曲がって歩き、おもての道へと接近していった。どの道にも人が歩いていることに、やがて僕は気づいた。黙って足早に、何人もの人たちが、おなじ方向に向けて歩いていた。

 どの人もどこかが一様で、たがいにどこかがよく似ていた。男は男どうしで服装がおなじようだった。女性は女性どうしで、類似の服を身につけていた。誰もが一様に黙ったまま、一様にうつ向き加減となり、一様に足早に歩いていた。

 そのあたりにそれだけたくさんの人が、いっせいに歩いているのを見るのは、僕にとっては初めてのことだった。これはいったいなにだろうかと、眠けの消えきっていない頭で思い始めた頃、僕は歩道のあるおもての道路に出た。

 バス停は向こう側にあった。そのバス停に僕は視線を向けた。ぎっしりと人のならんだ列が、二十メートルほど出来ていた。これにまず驚いた次には、人の列は二十メートル一本ではなく、折り返して三列になっていることに気づいて、僕は本当に驚いた。今日はなにか特別な日なのだ、とすら僕は思ったほどだ。

 僕といっしょに住宅地のなかを歩いて来た人たちは全員が道路を越え、すでに出来ている人の列のうしろに加わっていた。これではバスに乗れない、と僕は思った。そして、きわめて単純なことを考えた。そこから歩いて二、三分のところに、ひとつだけ始発点に近いバス停があった。そこへいけば、ここにならんでいる人たちよりも先にバスに乗れるはずだ、と僕は判断した。

 僕はそのバス停へと歩いた。四月一日、快晴の朝の陽ざしのなかに、二十メートル折り返し三列で六十メートルの人の列が、ここにも出来ていた。驚くという状態を越えて、ごく軽くパニックを起こしたような気持ちで、僕はその列のうしろについた。

 すぐにバスが来た。満員だった。なんとか六、七人が、自らをねじ込むようにして、バスのなかの人となった。次に来たバスには、一列の人が乗った。次には二列めの人が乗り、さらにその次のバスに、僕も含めて三列めの人たちが乗車した。

 バスのなかはぎゅうぎゅう詰めだった。さきほど見て驚いたバス停は、徐行しつつ通過した。車掌はドアを半開きにし、満員です、次をお待ちください、というようなことを言った。渋谷までぎっちり満員のままだった。前後にバスが何台もいて、ぜんたいが一列となって、かなり緩慢に走った。

 周囲から人に押されて身動きも出来ないままに、なぜこうなのかと僕は思った。なぜ、という問いに対して、そのときの僕は答えを持っていなかった。もはや毎日こうである、という認識すらなかった。こういう種類の現実を、四月一日という日の朝、突然、初めて知った。

 一九五六年の経済白書で、「もはや戦後ではない」と、日本政府は宣言した。戦後からの混乱期を脱し、日本は次の段階のまったく別な質の日本へと転換しました、という意味の宣言だ。この変質と転換とを支えたのは、日本全国でおこなわれた人口の大移動だった。

 農村部から都市部へと、日本の労働人口は大移動した。農村を離れて都市へ移り、そこで人々は会社に雇用されて働くことになった。日本のすべてが集中する一極が東京だから、日本のあらゆる地方から東京への人口移動は、この大移動のなかでもっとも大きいものだった。
 
 四月一日に僕が乗ったラッシュ・アワーのバスは、一九五〇年代なかばからすでに始まり、一九六〇年代に入ってさらにひときわ轟々と続いていた人口大移動によって、東京で会社に勤めることになった人たちで満員だった。

 渋谷でバスを降りた僕は、地下鉄のガード下まで小走りにいき、そこで道路を渡り、東横百貨店に入った。その確か三階の位置にあったはずの、銀座線の改札口から僕はなかに入った。地下鉄渋谷駅のプラットフォームでも、多くの人たちが列を作っていた。

 その列は、整列乗車という行為のためのものであることを、案内のアナウンスで僕は初めて知った。人々が混沌とプラットフォームにいて、どの人も好きなように車両のドアを入るという乗車のしかたは、ラッシュ・アワーには禁止されていた。

 あらかじめ列を作って、人々は列車の到着を待っていた。最初の列には三列の人。次の列にも三列の人。そして三番めの列にも三列の人がいた。列車は次々に入ってきては、すぐに発車していた。ふた列車もやり過ごし、列の先頭ないしはその近くにいれば、座席にすわれるのだった。最初の列にならんでいた人たちが列車に入ると、次の列の人たちは、ドアの位置までさっと横飛びに移動していた。

 僕はすわらない人として車両に入り、吊り革につかまって京橋までいった。確かにラッシュ・アワーではあったけれど、当時の地下鉄はまださほど混んではいなかった、と僕は記憶している。京橋で降りて、明治屋のわきへ出る階段を上がった。この階段はいまも昔のままにそこにある。明治屋の前を交差点まで歩き、南へと道路を渡り、昭和通りを越えて僕は歩いていった。

新入社員が研修される会場へ、僕の腕時計で九時ちょうどに、僕は到着した。研修は一週間続いた。発表会、説明会、講演会などに使う小さなホールが会場だった。会社のいろんな部署の人が演壇に立っては、それぞれの部署における必須知識について説明した。

 席にすわっている新卒たちに向けて、一方的に説明はおこなわれた。かならずしも巧みな説明ではなかったし、わかりやすい説明でもなかった。わかりやすく整理して文章や図表にし、定型の紙に印刷してバインダーに綴じ、新卒に配ればそれでいい。年度ごとの訂正や追加もおなじ紙に印刷して配付し、各自がバインダーに加えておく。それで充分ではないかと僕は思ったが、おなじスタイルの研修は毎年のきまりごととして繰り返されているということだった。無駄の多い日本の会社のなかで、恒例や慣習のように定着してしまった無駄のひとつだ。

 研修に参加した一週間のあいだに、出勤は非常に眠い、ということを僕は発見した。二階の席にすわって下手な話を聞いていると、猛烈な眠さをどのように制御するかが、最大の課題となった。猛烈な眠さと、なんとか眠らないでいようとする明らかに弱い意志とのあいだの、揺れ動き続ける均衡のなかを、意識不明に近い状態で漂って、午前中の時間は経過していき、そして終わった。意識不明から回復するのにしばらく時間がかかるほどに、僕は眠かった。研修は午後三時過ぎには終わり、終わるとそこで解散だった。

 おそろしく眠いという状態は、出勤時の地下鉄のなでも、僕を襲うようになった。渋谷駅で整列しているときすでに、僕は半分は眠っていた。車両に入って席にすわると、僕はただちに眠った。新橋までは無防備にただ眠るだけでいい、至福のひとときだった。銀座駅を発車する頃、席を立つための心の準備を整え、そのままの状態に保って京橋駅へと入っていき、停車寸前に眠ったまま立ち上がる、というようなタイミングの取りかたが、いつのまにか身についた。

 会社に通勤した三か月のあいだずっと、僕はこのように眠かった。銀座線・京橋駅のあの階段は、いまでもときたま使う。東京では珍しいことだが、改築も改装もされていず、雰囲気もなにも、すべて昔のままだ。二十二歳の頃のあの眠さを、階段を上がるとき、僕は回想する。なぜあれほどまでに眠かったのか。

 バスはあまりにも混むので、三日でやめた。小田急線の駅まで歩いて六、七分。各駅停車の上りに乗ってひと駅、下北沢で井の頭線に乗り換えて渋谷へ。渋谷で井の頭線の改札を出て、まっすぐに歩いていくと左側に、地下鉄駅への登り階段があった。渋谷までの所要時間は、バスの場合よりも短かった。

 ラッシュ・アワーというものは、すでに人々の生活の一部として定着していたが、ぎゅうぎゅう詰めというような状態にまでは、まだいたっていなかった。

 井の頭線では吊り革につかまって立ったままなかば眠った。小田急線のひと駅は、ドア越しの景色を見ていた。眠かったが眠りはしなかった。眠るためには距離が短すぎた。出勤がルーティーンとして定型のなかに落ち着くと、目を覚ます時間や自宅を出る時間が、一定していく。乗る電車とその車両がおなじになる。おなじ車両のおなじドアから乗る。下北沢の駅で素早く乗り換えられるよう、最適の位置で小田急線を降りるためだ。下北沢の駅も、昔とほとんど変わっていない。

 出勤がルーティーンになると、そのルーティーンぜんたいを、眠さが支配するようになった。目を覚ましたとき、僕はすでになかば眠っていた。なかば眠ったまま起きるのではなく、目を覚ましたのち、すぐになかば眠った状態となるのだ。朝食や身じたくなどは、夢のなかの出来事だ。駅までの道は夢うつつで歩いた。

 歩くことによって多少は覚醒されたから、小田急線のひと駅は、眠らずにすんだのかもしれない。下北沢での乗り換えのためには階段を上がったが、井の頭線に乗って吊り革につかまるとすぐに、立ったままなかば眠った。終点までその状態で過ごし、渋谷での乗り換えでほんの少しだけ覚醒し、整列して眠り始め、席にすわってただちに僕は眠った。

 あの頃、なぜあれほどまでに、僕は眠たかったのか。こんなに眠かった状態は、このとき以後の記憶のなかに、一度もない、あのとき以前、つまり子供の頃や高校生の頃にも、たとえばたまに早起きをしても、あれほどまでには眠くなかった。

 やがて少しは慣れるのではないか、などと思いながら僕は出勤を続けた。確かに、少しだけ、僕は慣れた。地下鉄のなかで一定の浅い眠りを持続させる巧みさが、三か月のあいだでなんとなく身についた。その程度までは進歩したあとで、僕は出勤をやめた。あれほどまでに眠かったのは、それが出勤だったからだ、といまの僕は結論している。

(『坊やはこうして作家になる』2000年所収)


1950年代 1960年代 2000年 『坊やはこうして作家になる』 京橋 会社 会社員 戦後 東京 渋谷
2016年4月11日 05:30
サポータ募集中