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正社員という絶滅危惧種

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 正社員、という言葉を目にする機会が多いことに、ふと気がつく。人の口から聞くことも多い。街頭で取材中のTVカメラに向かって、「今年卒業ですけど、会社に入るなら正社員を希望しますね、やっぱり」などと、青年が語っている。ほんのちょっと前までは、会社に就職するなら正社員があたりまえ、という時代が長く続いた。正社員ではない雇用のされかたのほうこそ、なんらかの事情のともなう、明らかにやや特殊なことだった。

 正社員になるのはいまではもうすでに難しいことであり、就職にともなって自動的に手に入る雇用の形ではなくなった現実を、正社員という言葉の現在における使用頻度の高さが、如実に物語っている。リストラ。出向。自宅待機。配転。早期定年。賃下げ。定期昇給廃止。ベア・ゼロ回答。ボーナス・カットないしは廃止。派遣社員。臨時雇い。パート。副業。退職勧告。サービス残業。過労死。中途採用の増加。即戦力。新卒採用減。外国人採用枠の拡大。成果主義。能力評価。スキル査定。年俸制。契約社員。思いつくままに挙げていっても、人の働きかたに深くかかわる言葉が、この十年ほどのあいだに急激に増えたことがわかる。しかもこれらの言葉のどれもが、頻度高く使用され続けている。

 人の働きかたのかたちも内容も、これまで通用してきたシステムのすべてを引っくり返るほどに、大きく変化しつつある。ホワイト・カラーの生産性や、非生産部門としての管理職をどうするか、といった難問をなんとか解決しないと、次の時代に入っていくことが出来ない。

 兆候はかなり前からあった。窓ぎわ族。肩たたき。社内いじめ。いやがらせ配転。ぶら下がり社員。いまから見れば懐かしさすら覚えるような、こんな言葉が目立ち始めたのは、いつ頃からだったか。現実が要求する厳しい対応を、屈折によって多少とも緩衝しようとした痕跡を、どの言葉も持っている。それだけの余裕が、当時はまだあった。こうした言葉からさらにさかのぼると、スーダラ節の時代、つまりサラリーマンが気楽な稼業だった時代に、いき当たる。このスーダラ節が日本に広がっていた時代にすでに、サラリーマンが支える会社立国による国民経済に対して、これが果たしていつまで続くのか、自分たちはこのままでいいのかという、根源的な不安や懐疑の念を、多くの人たちは触覚の先端で捉えていたと僕は思う。

 いま僕が列挙したような、人の働きかたにかかわるいくつもの現役の言葉を見渡すと、これまでのサラリーマン稼業のすべてをその根幹からつき崩す言葉ばかりであることに、誰もが気づく。サラリーマンは消えていきつつある。しかもたいへん急速に。そしてサラリーマンの標準的な雇用形態が正社員だったとすると、サラリーマンというありかたとともに、正社員というかたちも消えていく。

 正社員とは、いったいなにだったか。よほどの不始末さえないかぎり、能力も意欲も厳しくは問われないままに、定年まで雇用を保証されて昇給と昇進を重ねていく人、ということだった。そんな世界はもうどこにもないですよと、不良債権社員と呼ばれているような人たちですら、居酒屋で酒を飲みながら言っている。

 新規に採用された社員は、それがどこの誰であれ、まず一年契約の社員となり、評価や成果によっては1年後の再契約はなしとする、という方針を発表した企業がある。ごく当然の考えかただから、本来なら話題にはならない種類のことだが、日本の新聞やTVでは報じられた。いずれこうなると僕は思っていたが、予測していたよりは早かったな、と僕は感じた。社会の動きは急なのだ。人の働きかたがこうも変わるとは、社会そのものが、そのぜんたいそしてあらゆるディテールにおいて、革命的な激変を重ねているということにほかならない。

底本:『自分と自分以外──戦後60年と今』NHKブックス 2004年


2004年 『自分と自分以外ー戦後60年と今』 サラリーマン 仕事 会社員 経済
2016年1月8日 05:30
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