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砂糖は悲しいものだった

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「三歳、四歳、五歳の頃は、家のなかでしょっちゅう迷子になってたのよ。でも、小学校に上がってからは、それがぴたっとなくなったの。それだけ成長したからだろうと思うけれど、そんなに急に成長するものなのかしら」

 七歳の僕に友だちのお母さんがそう言った。すっきりと細身の体にいつも着物をきちんと着た、色白細面の見本のような、きれいな人だった。夢のなかから聞こえてくるような声は、たいそう魅力的なものだった。

 友だちは僕とおなじ学年だったから、おそらくおなじ年齢だったのだろう。彼の自宅は本来は武家屋敷なのだが、そこはあまりに広くて不便だし、いろんな制約があって住みにくいからという理由で、家族とその使用人たちは別宅に住んでいた。別宅と言っても、中国山脈のおだやかな山裾を背後にした、広壮な敷地のなかに建つ、大きな建物だった。何度も僕はそこへ遊びにいき、庭や離れも含めて、その家がどのような構造になっているのか、おぼろげながら全体像はつかんでいた。

 まったくおなじにしか見えない座敷が、いろんな方向に向けてつらなっているところへ、何枚もの襖を開けて入り込むと、幼い子供なら迷子になるだろうと、おなじく幼い子供の僕は思った。

「泣き声は聞こえてくるのよ。それを頼りに、名前を呼びながら、襖を次々に開けて、私は走っていくの。泣きながらこの子も襖を開けては走っていくから、声の聞こえてくる方向が変化するのね。いまあちらから聞こえていたと思ったら、もう違う方向から泣き声が聞こえてきて、なにかに操られてるみたいで、大人の私でも怖い思いをしたのよ」

 なにかの都合で甲冑がまんなかに立ててある座敷へ突然に入ったりすると、思わず悲鳴を上げることもあったという。僕と友だちがそのような家のなかで遊んでいると、そのお母さんはいつもどこからともなくあらわれるのを、特徴としていた。炬燵のある部屋へ友だちとともに連れていかれ、「さあ、ヨシオちゃん、炬燵にお入りなさい」と彼女に勧められ、目の前にある炬燵に僕は頭から入ったことがあった。

 炬燵、という言葉はなぜか知っていた。炬燵を見せられて、これはなんですかと訊かれたなら、それは炬燵です、と答えることも出来た。しかし、炬燵に入る、ということは知らなかった。身辺に炬燵がなければ、少なくともある期間は、知らなくてもそのことに不思議はない。知らないとはそういうことだろう。お入りなさいと言われた僕は、炬燵布団の手前に両膝をつき、布団の縁を持ち上げ、頭から布団のなかに入ろうとしたのだ。

 入ろうとしたその瞬間、これは間違いだ、とわかった。炬燵のなかには練炭だかどんだかが盛大に火の塊となっていて、充分に温かいと同時に、炭酸ガスが充満していた。あれだけの有毒ガスをあの部屋はどうやって外へ出していたのだろうか。広い部屋だったが、だから安全だというわけでもないだろう。炬燵は危険である、これは生命にかかわる、という直感をそのとき得たのは、貴重な体験だった。僕が布団から頭を出すと、友だちのお母さんは畳に尻もちをつき、笑い転げていた。

 そんな七歳の頃のある日、その家で僕が友だちと遊んでいたら、彼のお母さんがいつものようにどこからともなく、その姿をあらわした。美しい磁器の壺を、彼女は小脇にかかえるように持っていた。「ヨシオちゃん、おやつをあげましょう」と言った彼女は、息子に蓋を持たせ、壺のなかにあった小さなスプーンに白い結晶のような粉を半分ほどすくい、「手をお出しなさい」と、僕に言った。差し出した僕の掌に、彼女はスプーンの白い結晶を置いてくれた。これは砂糖だ、と僕は思った。友だちもその掌に、おなじように砂糖をもらった。その砂糖を舌の先でなめる。それが、おやつだった。

 この頃の日本では、砂糖は国家によって統制された食品ないしは品物のひとつだった。統制が解除されたのは、おやつから五年もあとのことだ。一九四六年の五月に、サッカリンという人工甘味料の使用を、日本政府は許可した。おなじ年の七月には、ズルチンという人工甘味料の使用を政府は許可している。砂糖は貴重品だった。だからこその、スプーンに半分のおやつなのだが、貴重品だったとは少なくとも一般には手に入りにくかった、ということだ。しかも砂糖は統制されていた。

 統制されていれば手に入りやすい、というのが本来のありかただろう。食料全般に関して、さらにはそれ以外の資材すべてに関して、戦後日本の政府がいかに怠慢で無能だったか、砂糖だけを、しかもそのほんの小さな一角を見るだけで、はっきりとわかってしまう。二種類の人工甘味料の使用許可は、砂糖不足への政府の対応が、常に後手にまわってなおかついかに場当たり的だったかを、如実に物語っている。砂糖不足に対する抗議や不満をかわすため、甘ければ文句はないだろうとばかり、いろいろと問題のあることがわかっていたはずの人工甘味料の使用を、許可してしまう。国家による砂糖の統制が解かれたのは、敗戦から七年もたってからだった。

 砂糖は自宅にたくさんあった。必要はないのだが、単なるひとつの家庭にある量としては、大量と言っていい砂糖がいつもあり、しかたないからあるままにしておく、というような状況だった。砂糖、パンケーキ・ミックス、コーヒー、クリスコのような油、塩、さまざまな缶詰、菓子やキャンディ類など、最低限度必需品と思われる食料を、アメリカやハワイにいる父親の親族たちが、敗戦後の日本の状況を心配して、盛んに送ってきていた。そういうものが奥のほうの部屋の棚いっぱいに積んであった光景は、スーパーマーケットの棚の一部分のようだった。送られて来るたびに、それが途中で「紛失」したりせず、かならず自宅に配達されるのは、驚くべきことだと母親が言っていた。そのことには本気で感心していた母親だが、届いた品物に対しては、「こんなん、あほちゃうか」と言っていた。こんなんとは、届いた物ぜんたい、さらにはそれらを送ってくれる人たち、そしてそれらをひどく欲しがる人たちなどを、広く意味していた。彼女にとってはそれらの食品は埒の外、問題外であり、存在しないも同然だった。したがってそれらのかなりの部分が、幼い僕の遊び道具となった。

 砂糖は蟻を呼ぶことを、どのようにして知ったか記憶にない。広い庭の隅に蟻のたくさんいるところがあり、そこに砂糖を三角の小さな山にしておくと、なんとも言いがたく興味深い光景を、何日か続けて観察することが出来た。黒山の人だかりと言うけれど、白い砂糖の小山はまっ黒な蟻だかりなのだ。ただ単にたくさんの蟻が集まっているのではなく、どの蟻も砂糖の結晶のひと粒を頭上にかかえ持ち、どこかへと運んでいるのだった。

 砂糖の小さな山をいくつか作り、そのどれにも蟻が集まっている様子を俯瞰すると、感銘は奥行きを獲得した。山ではなく一直線に砂糖を置くと、感銘が獲得する奥行きは方向を微妙に変化させた。地面に腹ばいとなり、シャーロック・ホームズが使うような、把手のついた丸い凸レンズ、つまり天眼鏡で蟻を観察していると、やがて心の底に沈殿されていく悲しさのようなものを、いくら幼いとは言え、自覚しないわけにはいかなかった。友だちのお母さんが掌にくれたおやつの砂糖は、この悲しさのようなものを僕の心のなかに確定させる役を果たした。

 庭の地面に腹ばいとなり、天眼鏡で夏の蟻を観察しているとき、頭のうしろや背中などに受けとめる瀬戸内の陽ざしの感触は、いまも僕のなかにある、と思うことにしている。屑でしかないガラスを集めて細かく砕き、砂糖に混ぜて量を増やして売る、という大人の世界の話を聞いて驚いたのは、ちょうどこの頃だ。砂糖に混入させてすぐには見破られないほどに、屑ガラスを細かく砕く労力は大変なものだろうと、子供心にも思ったものだ。そのような手間をかけてもなお、砂糖の量をガラスで増やせば、手に入る売上金は労力をはるかに越えたのだろう。

底本:『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』NHK出版 2005年


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2020年5月13日 07:00
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