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サンドイッチとアメリカの理念

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『ディア・ハンター』というアメリカ映画のなかに、いまでも忘れていない、きわめて興味深い場面がひとつあった。鹿撃ちに出かけた男たちが昼食を食べる場面だ。持って来た食事の材料を、彼らは自動車のエンジン・フードの上に広げる。なるほど、サンドイッチを作って食べるのだな、と誰もが思うけれど、彼らはそんなものを作ったりはしない。

 ならべた材料を、端から順番に、そのまま彼らは食べていく。マヨネーズやマスタードは指先につけてなめる。パンにはなにもはさまず、パンだけを食べる。ハムもサラミもボローニャも、すべて単独に、それだけを食べる。エンジン・フードの上に広げた材料を、こうして一方の端から食べていき、他方の端まで食べ終えると、それでその食事は完了する。

 このような行為がすべて冗談である、というわけではない。冗談の部分が半分はあるとするなら、残りの半分は本気なのだ、と僕は解釈した。そしてこの場面のこの食べかたに対して、僕は親近感を覚えた。長いあいだ忘れていたことを思い出したような、懐かしい感触すらそこにはあった。

 サンドイッチの材料を持って来たのに、それらを駆使してサンドイッチを作ることはせず、ならべた材料をそのまま端から食べていく。サンドイッチの理念がこれ以上ではあり得ないほど明確に、解き明かされていくのを見る場面でもあった。サンドイッチとは、ひと切れのパンの上に何種類かのフィリング(具)を重ね、そこにもうひと切れのパンを載せて、ぜんたいをふさいだ、あるいは閉じた、ものなのだ。

 パンがなければどうにもならないのだが、それはとにかくあるとして、冷蔵庫のなかのありあわせの材料を重ねて、もうひと切れのパンで閉じる。なにをどう重ねようと、それはそれを作る人の自由であると同時に、ひとつひとつの材料が重なり合って作り出す、ぜんたいとしての好ましい共鳴の関係がどうなるかもまた、それを作る人の自由、つまりその人が自分の体験のなかから導き出す、イマジネーションの自由だ。そのようにして作ったものを食べておいしく、満足感が高ければ、ただ単においしかったね、よかったね、で終わるのではなく、ともに食した人たちという他者から自分のアイディアが支持されるという、アメリカの理念の小さな体現の現場となる。

 ごく普通の家庭の冷蔵庫のなかに、とんでもないものが入っている可能性はごく少ない。冷蔵庫のなかにあっておかしくないもの、あるいはそこにあるのが当然のものしか、入ってはいない。さて、それではサンドイッチを作ろうときめたときの、スタート地点はどこの誰にとってもほぼおなじなのだ。BLTなどはベア・エッセンシャルだけのニッティ・グリッティであり、それにコーヒーがともなえば、アメリカの民主主義はここから立ち上がってくるものなのだ、とアメリカでそれを食べるたびに僕は思う。ベーコンにレタスにトマト。この組み合わせは素晴らしい。チーズを使わないところが高く評価出来る。マヨネーズやバター、さらにはマスタードなども、なんら関係ない。

 漫画『ブロンディ』の主人公である、ブロンディという主婦の夫、ダグウッド・バムステッドの好物は、彼が自分で作るダブル・デッカー・サンドイッチ、つまり二階建てサンドイッチだった。ひと切れのパンにいろいろと重ねていき、ひとまずもう一枚のパンを載せ、その上にさらに具を重ねたあと、三枚目のパンを置いてぜんたいをふさぐようにする。ダグウッド・サンドイッチと呼ばれて、遠い昔、人気があった。

 ダグウッドのオリジナルだと思った人も多かったようだが、構造を冷静に点検すると、チキン・クラブ・サンドイッチを上に向けて拡大したものであることが、わかるはずだ。チキン・クラブ・サンドイッチは、日本ではアメリカン・クラブ・ハウス・サンドイッチと呼ばれている。なぜこう呼ばれるのか、その由来を僕は知らない。戦後の日本に占領軍として駐留していたアメリカ軍と、なにか関係があるのだろうか、などとぼんやり思ってもみる。

 チキン・クラブ・サンドイッチのオリジナル・ヴァージョンは、きわめて簡単なものだ。薄くスライスしたパンを三枚用意して、どれをもトーストする。そのうちの一枚の片面にマヨネーズを塗る。その上にレタスを敷き、そこへチキンの薄いスライスを載せていく。この上に二枚目のトーストを置くのだが、内側になる面にバターを塗り、外側にはマヨネーズを塗る、という構造を好む人が多い。重ねた二枚目のトーストの上には、レタスを敷いてかりかりのベーコンを載せ、トマトのスライスを敷く。そして三枚目のトーストを重ねればそれで出来上がりだが、その三枚目の内側にマヨネーズないしはバターを塗るか塗らないか。

 ひとまず出来たチキン・クラブ・サンドイッチぜんたいに平均的に重さがかかるよう、重しを載せておく時間が必要だ。そのあとどのピースも三角形になるように切り、つま楊枝に似た細い木の串でやや斜めに貫き、ぜんたいをつなぎとめる。そしてもっとも座りの良い一辺を底辺として、三角形の突端がすべて上を向くよう、皿に盛りつける。

 サンドイッチというもの、あるいはそのような食べかたを最初に思いついた人は、十八世紀のイギリスに生きた第四代サンドイッチ伯爵だった、ということになっている。カード・ゲームがことのほか好きで常にそれに熱中していた伯爵は、食事のためにカード・テーブルを離れる時間をも惜しんだ。カード・テーブルに向かったまま簡単に食べることが出来るよう、薄いパンのスライス二枚の間に、肉の薄いスライスをはさんで持って来るように、と料理人に命じたその瞬間に、サンドイッチは誕生したという。

 硬いパンのひと切れを皿のかわりにして、その上におかずを置いて食べる、という食べかたはすでに中世の頃からヨーロッパにはあった。一枚の木皿の上に、ひとりの人が食べるために、あれこれと盛った料理のことを、トレンチャーと呼んでいる。そのように使う四角や円形の大きな木皿のことを、いまではトレンチャーと呼んでもいる。このような食べかたは、サンドイッチまであとほんとに一歩ではないか。ひと切れのパンの片側に具を載せ、それをはさみ込むかのように、残り半分のパンを折りたためば、それはもうサンドイッチだ。

 サンドイッチという言葉は片仮名書きの言葉として、日本語のなかに定着している。サンドイッチという食べ物も日本のいたるところにあるけれど、いまこうしてサンドイッチについて書いている僕の頭の中心にあるのが、駅の売店や電車のなかで売っている、ミックス・サンド、卵サンド、ハム・サンドといった貧相なものなのかと思われると、たいへんに困る。あのようなサンドイッチは、好意的に肯定的にとらえるなら、お茶の時間に少しだけつまむ、繊細なサンドイッチの亜種だとは言える。アメリカふうのサンドイッチ、あるいはそのような食べかたは、日本にはなじまないようだ。味がどうしたこうしたの問題ではなく、サンドイッチを貫く基本理念に、日本の多くの人たちが共感を持てないからだ。大きな皿に盛大に盛りつけたオープン・フェイスド・サンドイッチはフランスのものだということだが、アメリカのものも素晴らしい。

 東京の街角にサブマリーン・サンドイッチの店を見たとき、僕はかなり驚いた。早くも二十年くらい前のことになるだろうか。サブマリーン。プアボーイ。グラインダー。ヒーロー。ピースメイカー。いろんなのがある。はさむ具によって名称が異なる、という理解でもいいかと思うが、用いるパンの種類によって呼び名がいろんなふうになる、というのが正しい歴史のようだ。フランスあるいはイタリーのパンを、ほどよい長さに切り、それをさらに水平に切って開く。切り離してしまわず、片側はつながったままにしておく。こうして切り開いたパンに具を載せ、パンを閉じて重しを充分にかける。イタリーふうに整えた具ならなんでもいい、という考えかたの店がアメリカには多いようだ。イタリーだけではなく、地中海全域だろう。ギリシアやスペインふうのもあるし、中東へも広がっていく。プアボーイやピースメイカーは、僕の記憶をごく簡単に言うと、フランス・パンを使った牡蠣フライのサンドイッチだ。

 お腹を空かした子供の間食に、どんなお母さんでも作ることの出来るサンドイッチは、ヒーロー・サンドイッチだろうか。ほどよい長さのフランス・パンを、たったいま書いたとおりに切り開く。土台になるほうの表面にマヨネーズを塗り込める。その上にレタスを敷く。レタスは彩りや味であるよりも、具の湿気がパンにしみ込むのを防ぐ、防湿シートの役を果たしている。

 こうして敷いたレタスの上に、チェダー・チーズのスライス、トマトの薄いスライス、太いサラミのスライスの半分、ボローニャの薄いスライスを、少しずつずらしながら重ねていく。一方の端から他方の端に向けて、この作業を繰り返せばそれでいい。パンを閉じてしっかりと重しをかける。ちょっと押さえるだけではなく、重しを載せたまま三十分ほど放置すると、具の香りが閉じ込められ、そのぶん濃厚に感じられるし、パンも微妙に柔らかくなる。一九六十年代なかばのアメリカだと、こういうサンドイッチに使うチーズは、クラフトのスライスド・チーズである場合が多かった。スイス。ブリック。ミュンスター。キャラウェイ。モッツアレラ。チェダー。プロヴォローネ。このくらいの種類はあったから、チーズだけ一枚ずつ種類を変えていくと、食べるとき退屈しないですんだ。明らかに調和しないチーズが、かならずひとつやふたつはあるからだ。

 ハンバーグに続いてハンバーガーも、日本語の語彙になって久しい。このハンバーガーも、僕のとらえかたによれば、サンドイッチの一種だ。丸いパンをひとつ、水平に切り離し、アイスバーグ・レタスを敷いてトマトのスライスを載せ、パティを置き、さらに玉葱やチーズなど、うまく効果が上がるならなにを加えてもよく、いちばん上にパンの上部を重ねて出来上がりなのだから、基本的な構造を作り出している考えかたは、サンドイッチそのものだと言っていい。

 トマトのスライスは薄くすればするほどおいしいという説を、一九八十年代の初めに、アメリカで聞いたか読んだかの記憶がある。わかりやすくするためのたとえ話のような言いかたになるが、厚さ一ミリのトマト・スライス一枚よりも、厚さ〇・一ミリにスライスしたものを十枚重ねたほうがはるかにおいしい、という説だ。厚さ一ミリで口に入れるよりも、〇・一ミリの厚さで十枚のスライスを口に入れたほうが、入れたときすでに十倍に細分化されているのだから、嚙んでいくときの感触、さらには舌や口腔など味を感知する部分に触れる頻度や面積は、格段に多くそして大きくなるはずだ。

 ハンバーガーのパティは、サンドイッチのようにいくつかの材料を重ねた状態から、さらに少しだけ進化した姿のように思える。重ね合わせる、という段階の次にあるのは、混ぜ合わせる、という段階ではないか。パティは混ぜ合わせのきわめて素朴な典型例だ。ビーフの赤い身の部分と脂身とを、なんらかの比率で混ぜ合わせる。この比率は普通には六対四だという。脂身にかかわる工夫がうまくいくと、口に入れて嚙んでいくときに口のなかに広がる、味や香りといったものの総体としての感触が、きわめてジューシーで結構だ、ということになる。パティを焼くにあたってはソースをかける。瓶入りでスーパーの棚に各種ならんでいるあのソースではなく、店ごとの秘伝とも言うべきシークレット・ソースだ。これも主として液状の材料の混ぜ合わせや調合つまりコンコクションという、アメリカの草の根における得意技そのものだと言っていい。

底本:『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』NHK出版 2005年


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2020年5月20日 07:00
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