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絶望のパートタイム・サーファー

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 いまの日本の人たちほど不自然で無理な生きかたをしている人たちは、世界のどこにもいないと言っていい、という感想を僕は持っている。ここで僕が言ういまとはどのくらいの時間の幅なのか、僕が自分で体験した範囲内で言うなら、高度成長の急な登り坂の、下から3分の1ほどの位置に該当する時期から、こちら側だ。

 そのごく短い期間のなかで、日本の人たちがいかに基本を忘れた奇妙で不自然きわまりない生活をするようになったか、具体的な例をひとつだけあげておこう。それは雨だ。

 雨は、日本列島にとっては本当に恵みの雨であるのに、そのことはすっかり忘れて鈍感になりきったまま、たとえば新聞は、梅雨入りになるとかならず、じめじめしたうっとうしい雨として、梅雨を人々に伝える。

 人々のほうでも、雨はやっかいなもの、嫌なもの、面倒なものでしかないから、ほんの2、3日も雨が続くと、よく降るねえ、いやんなっちゃうねえ、などと平気で言っている。日本の年間降雨量がその人たちの気持ちに合わせて半分にでもなったら、日本はもはや日本ではあり得ないのに。

 高度成長の急坂以来、日本は修復のおそらく不可能なほどに、大きく複雑にねじ曲がってしまった。

 経済高度成長とは、言うまでもなく、日本的な資本主義の洗練と発展だ。洗練と発展などと言うとそれはなにか輝かしく肯定的なもののように思えるが、資本主義とはそもそも、この地球の生態系から人間を限りなく逸脱させ続けるシステムにほかならない。

 そのシステムは15世紀のスペインから始まり、オランダやイギリスを経てアメリカに移り、そのアメリカの資本主義に合流するようなかたちで、日本的な資本主義を日本は戦後にスタートさせ、今日に至っている。

 日本の資本主義は、要するに、全土にびっしりと林立する企業群による、大量生産と大量消費を人海戦術で推進することでしかなかった。そのなかでもっとも邪魔になると同時に、もっとも捨てやすかったもの、それが無理のない自然でおだやかな、分相応の生活の送りかたというものだった。

 基本中の基本を無用のものとしてあっさり捨てることと引き換えに、おそろしく人工的で自然から遠い、無理ばかりの歪んだ生活を人々は手に入れた。

 資本主義は無限の利益を追求する。さきほど書いた逸脱も、だからこそ起こってくる。追求する無限の利益は、地球上の資源を大前提にしていた。しかし地球はじつはあまりに小さく、資本主義をこれ以上には支えきれないことは、すでに確定している。

 地球はもはや滅びるほかなく、いま人々がするべきことは、人間とはこれほどまでに馬鹿で奇妙な生き物だったのかと、まず自らに絶望することであるはずだ。

 しかし人々はまだ絶望はせず、なんとかなるだろうと鈍感にも軽く考え、価値観やライフスタイルの追求、男のステータスやこだわり、自分さがし、ゆとりのある時間、地球に優しい生きかたなどと言いつつ、毎日の生活をさらに人工的で自然から遠いものにすることに余念がない。

 いま人々にとってもっとも重要な課題は、おそらく自然との共生と言うよりも、自然のかたわらで出来るかぎり矛盾少なく、なんとか生きのびる方法を模索することだろう。

 自然との共生はたいへんに結構だが、その自然はたとえばほんの数十年まえにくらべると、じつはくらべものにならないほどに変形され変質され、汚染され破壊されている。空気はかつての空気ではなく、海はかつての海ではない。

 森林は消える、生き物はかたっぱしから絶滅していく。自然と共生しようとして自然に目をむけると、そこには人間の馬鹿さかげんだけが巨大に蓄積されている。

 絶望こそまさに正しい道だ。心のなかを絶望でいっぱいにしてある日あるところで、僕は海に飛びこむ。自殺するためではなく、価値を確認するためだ。海に飛びこみ、水のなかにもぐりこみ、海という途方もない生き物の見事な端末で、少なくともいまは海のなかにいる生き物のひとつとなって僕は海面に浮かんでくる。

 顔から海水をふり払い、晴れた空を仰いで海の上にあおむけとなり、きらめく陽ざしを顔に受け、視覚をとおしてそれを頭の内部に導き入れる。

 そしてその瞬間、これはいまでもまだ確かな価値なのだと、僕は確認する。7歳くらいの頃から、この確認の瞬間は、僕にとっては価値というものを計るための絶対基準として機能して来た。

 陽ざし、雨、風、雲、雷、星、月、樹木、山、野原、川、海などを、子供にとってちょうどいいスケールで、僕は幼い頃から少年期の終わり近くに至るまで、幸いにもまんべんなく体験することが出来た。

 海に飛びこみ、海面に浮かんであおむけとなり、顔に海の水と陽ざしを感じつつ、海に浮かんで空のずっと遠くへ視線をのばす瞬間という、価値の絶対基準を手に入れたのは、そのような生活環境のなかでだった。

 生活が特別に恵まれていたからそんなことが出来たわけではないし、ライフスタイルの追求にこだわっていたからそれが出来たわけでもない。当時はほとんど誰もが、等しくそのような生活をしていた。

 海に飛びこみ、海面に浮び出し空を仰ぐ瞬間の僕は、ライフスタイルなどのなかにはいない。こだわりのなかにもいない。地球にとって正しい価値の片隅に、ほんの小さく、ささやかにいるだけだ。子供のときにいつも感じていたうれしさとまったく変わらないうれしさを、その瞬間、いまも僕は感じる。

 しかし、すでに書いたとおり海は質的にかつての海ではなく、空も質的にかつての空ではないことを、僕はそのうれしさのなかで自覚している。うれしさは確かにうれしさだが、いまでは発展型のうれしさではなく、帰還型のうれしさに変わっている。これから進んでいく方向として、まちがってはいない唯一の方向はこちらだ、という感覚でとらえなおす地球の価値は、じつは帰還先だ。

 海辺を歩くだけでも、あるいは海について思うだけでも、帰還の道すじは見えてくる。ただ眺める海、あるいは思いをはせたり託したりする海も悪くはないが、掌のなかでもてあそぶだけだと、帰還先は消えて迷子になりかねない。

 いま少し自分のなかで海を動的にしたいとき、波乗りは最適な方法のひとつだ。ボード一本、トランクス一枚、あとは知識と体験と少々の体力。それだけで海のエネルギーとひとつになる瞬間を何度も持てるのだから、地球の価値の原点へのルートとして、波乗りはたいへんに正しいもののうちのひとつだ。不自然と自然との、ちょうど中間あたりに位置している遊びであることも、波乗りというものの魅力を増幅してくれる。

 いまもっともぜいたくな、したがって多くの人が夢見ている生活のしかたは、海や山などの自然が持っている奥行きや広がりを、なんらかのかたちで実感出来るような毎日ではないだろうか。都会のただなかで波乗りの雑誌を買い、地下鉄のなかでそのページをめくりつつ、潮の満ち引きや月の満ち欠けに思いをはせる生活のしかたは、人間というおよそ不自然な生き物が作り出したものとしては、じつにすんなりとした正解のひとつだと、僕は思う。

 このような生活のはるかむこう側に、自然と一体になった毎日たとえば南の小さな島の片隅に移り住み、魚を取る達人となることをとおして、ささやかな、しかし充実感の大きく深い生活を維持していく、というような単純な夢を、人々はともすれば語りがちだ。

 しかし、フル・タイムになれば問題はすべて解決するわけではない。事態はもはやそのような単純な段階ではない。フル・タイムの魚取りになったなら、絶望は消えるのだろうか。

 あるときは都会という矛盾の塊のなかに。そしてあるときは、海という絶対の価値基準のなかに。ひとつの体とひとつの心を、この対立するふたつの世界に交互に置き、両者のせめぎ会いのなかで感覚を鋭く磨きつつ、その感覚を頼りにきわどい綱渡りのバランスを取ることのなかに、進むべき方向は見えてくるのだと、僕は思う。

 そしてその方向は、帰還の方向だ。波乗りをしようとして海のなかにいて波を相手にしているとき、帰還への正しい方向感覚を身につけるためには、高度な技術をたて続けに発揮する必要はまったくない。高度なパフォーマンス技術は人に見せるためのもの、つまり競い合いを最終的には金銭に転換するためのものだ。

 乗るべき波の外側にいて、入って来るうねりの力をボードにまたがって体感するだけでも、感覚は磨かれる。入ってくるうねりは、水分子の円運動のエネルギーという、抽象と具象の鋭く合致する頂点のような世界だ。そのエネルギは、ボードとそれにまたがる自分を空中に持ち上げる。

 ボードの両側から海のなかに垂らしている両脚をかすめて、うねりのエネルギーが通過していく瞬間、自分の知覚力が感じ取る価値を心のなかに蓄積させ続けるなら、それはやがてコンパスの針のようなものになっていくだろう。帰還の方向を自らに正しく示すコンパスだ。

 ボードをかかえて波打ちぎわを砂浜へ上がっていくとき、太古の時代に初めて海から陸へ上がった生物と、サーファーは自分のDNAの内部できわめてかすかに再会する。海の上で遊ぶことは出来ても、サーファーもまた海のなかの生き物になることは出来ない。陸に上がるほかないから、彼は陸に上がる。

 そしてその陸の上に彼が見るのは、人間の為し得るもっとも人間的な営みである、自然から思いっきり遠い、人工的な生活だ。価値の絶対基準を海で確認しつつ、出来るだけ健康ですんなりとしたかたちで、心のなかに絶望をはぐくむパート・タイムのサーファー。僕はそのような人でありたいと思う。そうすれば、少なくとも帰還地点はまちがえずにすむから。

(2015年12月13日公開|『昼月の幸福』1995年所収)


1995年 『昼月の幸福ーエッセイ41篇に写真を添えて』 サーフィン 環境 自然
2015年12月13日 05:30
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